黒猫町連続窃盗事件 3章:決断

「俺は――」
 と言ったものの、それ以上言葉が出なかった。しかし、ここは仲間を危険に晒してしまった所長代理の立場として――。
「待て」
 晴彦は、ふと疑問を感じた。
「なんでそんな選択をさせるんだ」
 ふふん――と右近は笑う。そして口ひげを指でつまみながら答えた。
「はじめにも言ったが、われられは優秀な頭脳を求めている。その頭脳は、より活性化した状態のものが望ましい。こういう選択を迫ることで、きみらの脳を活性化させ、より良い状態でいただこうと思ったからだ」
 やはり手に負えないくらいの下衆な男だ。
「さあ、考えている時間はないぞ。あと十秒以内に決断をくだしたまえ。われわれとしても、ここに留まっているのは都合が悪いのでね。十秒以内に決断をくださなければ、全員の命をもらうぞ」
 ――くそ。
 全員を犠牲にさせるわけにはいかない。そう考えた。
「それなら――」
 そして最後の決断をしようとした時だった。

「そこまでだ!」

 濁声が響いた。
 まるで痰の絡まったような、耳障りな声だった。
 そして、右近たちのあとに続いて、黒いスーツの男たちが十人ばかり入ってきた。全員、サングラスをかけている。
 その集団は、入ってくるなり横に広がって、全員が同時に拳銃を構えた。
 その後から、また別の人物が入ってきた。
 図体の大きな男だ。顔は弁当箱のように四角い。髪を短く刈り上げ、太い眉の間には、刻み込んだかのように深い皺が寄せられている。
「鬼塚警視正!」
 晴彦は、その男の名を叫んだ。鬼塚の凶悪な面相には、いっそう磨きがかかっていた。
「なんで、あなたがここに」
 イサムも驚いたようにそう尋ねた。
「何でも何もねえや」
 と鬼塚は相変わらず伝法な口調でそう言った。
「言っただろう。てめえらには見張りをつけるってな」
 その鬼塚の言葉のあとから、背の高い、茶髪のふわっとした童顔の男性が入ってきた。
「咲間警視!」
 童顔の男を見てその名を呼んだのは、詩織だった。
「ごめんね詩織ちゃん。本当はさっきにでも助けてあげたかったんだけど」
 咲間は、照れているかのように後頭部をかきながら、その童顔にいつものような愛想のいい笑みを浮かべている。
「なんでさっきは助けてくれなかったのですか」
 詩織はまだ腕をつかまれているから、正確には助かっていないのだが、拳銃を構えた集団が入ってきたことで、もう助かったつもりになっているのだろう。詩織は、若干怒気を含んだ口調で、咲間にそう問いただした。
「いや、さっきは私ひとりだったし、多勢に無勢だったから仲間を呼ぶことにしたんだよ。ごめんね」
 と咲間は言って、拝むように両手を顔の前で合わせた。
「仲間?」
 詩織が不自由な体勢のまま首をかしげる。
 そう、仲間だよ――と咲間は答えた。
「鬼塚警視正と、その愉快な仲間たちさ」
 そして、オペラ歌手のように、優雅に両手を広げた。
 その開かれた両手につられて、晴彦は視線を左右に移した。拳銃を持った男たちと、鬼塚の姿が目に止まる。
「馬鹿野郎どもが」
 鬼塚が唾を吐き捨てるように言う。
「まんまとこんな危険な目に遭いやがって。やっぱりてめえらには見張りをつけて正解だったな」
 濁声で言い捨てる鬼塚に、咲間が相槌を打つ。
「私としては隠しカメラをつけて見張るつもりだったんですけど、晴彦くんと梨奈ちゃんがは、途中でカメラを捨ててしまったらしくって、それで居所を掴むのに苦労しましたよ」
「馬鹿野郎。てめえのことだ。隠しカメラったって、どうせ本人の前で堂々とつけたんだろうが」
 それじゃあ隠しカメラの意味がねえじゃねえか――と鬼塚は歯茎を剥き出しにして咲間に凄んだ。咲間はそれでも怖がるような様子は見せず、ただ、あははは――と笑ってみせた。
「まあ、それでも、殿下と詩織ちゃんは素直に隠しカメラを付けたままにしておいてくれたら、こうして賊のアジトも発見できたわけですし、いいじゃないですか」
「ちょっと待ってください」
 晴彦は割って入った。
「咲間さんは、俺たちが自由に行動できるように、あえて隠しカメラを俺たちの目の前で付けてくれたんじゃないんですか」

 みんながこれを勝手に外しちゃったら、僕としてはきみたちの動向を探れなくなるばかりか、鬼塚警視正には何の報告もできなくなるんだけどね――。

 そう咲間は言っていた。

 つまり、カメラを勝手に外して動向を探れなくし、鬼塚警視正に報告できないようにして、自由に行動するといい――という意味を、晴彦たちに裏をかかせるという形で伝えてくれたのだとばかり思っていたのだけど……。
「そんなわけないよ」
 と咲間は言った。
「今回の相手は、表向きは窃盗だけど、本当は人間の脳みそを狙う凶悪犯だからね。そんな危険な相手に、きみらを晒すわけにはいかないと思ったんだよ」
「それなら、そう言ってくれたらいいのに」
 すみません、殿下――と咲間は頭をさげた。
「今回の事件。どうしても逮捕ができなかったんです。なにしろ窃盗の被害者はあくまで窃盗ではなくて紛失だと言うし、脳を狙っていると言っても、まだ被害者が出たわけではないのです。だから、誰かが捕まるとかしてくれないと、逮捕ができなかったんです」
「それで、つまりその〝被害者役〟を私たちに振ったわけなのですか」
 そう訊いたのは詩織だった。
「そういうこと。ごめんね詩織ちゃん」
「ひどいのです!」
 詩織は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「何がひどいもんかッ」
 と鬼塚が怒鳴った。
「俺は何度も言っただろうが。危ねえことに首を突っ込むんじゃねえとな。厭なら止めときゃ良かったんだよ」
 それは正論だった。晴彦も今回ばかりは反論ができない。
「いや、そうだとしたら、なんで鬼塚警視正は、右近さんの奥さんを追いまわしたりしてたんだい」
 とイサムが割り込んで質問した。
「馬鹿野郎ッ」
 と鬼塚はまた怒鳴った。この警視正は、口を開けば馬鹿野郎ばかりを言う癖があるらしい。

「右近の嬶こそ、おめえ、窃盗の犯人だったんだよ。その犯行現場に居合わせたから、現行犯で逮捕しようとしてたんじゃねえか。それをてめえらが台無しにしやがったんだぞ! 本当なら公務執行妨害だぞコラ!」
 鬼塚にかかれば、相手が喩え王族の血を引く人間が相手でも、遠慮なく「てめえ」呼ばわりになるらしい。
 えへへへ――と詩織が歪んだ笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、なのです」
「まあまあ」
 と咲間が場を納めに入った。両手の手のひらを下に向けて、上下にゆっくりと動かす。
「とにかく今回は、殿下と詩織ちゃんの推理のおかげで、晴彦くんたちも助かって、こうして賊のアジトも見つかったわけですし、良いじゃないですか」
「そしてこのアジトの在り処を発見したのは、晴彦と梨奈ちゃんの推理のおかげだよ」
 とイサムが言って、片目を閉じた。
「さて、お喋りはこのくらいにして、悪漢どもにはお縄になってもらおうか」
 と鬼塚は言った。
 咲間が手錠を取り出して、右近とその手下たちの腕に掛けはじめる。右近たちは抵抗しなかった。無理もない。いくらイサムの攻撃に耐え続けた屈強な男たちとは言え、銃を前にしてはさすがに抵抗できないだろう。
 そして全員の腕に手錠が掛けられ、連行される直前に、右近はひと言叫んだ。
「われわれはこれで捕まるが、それでもまだ滅びはしない。わが一族は、永遠に生き続けるのだ!」
 そして大きな声で、あははははは――と笑ったのだった。
 それが本気なのか、それとも単なる強がりなのか、それは分からない。いずれにしても、警察で取り調べを受ければすべての事情が明らかになるだろう。
 詩織も開放され、ようやく武智探偵事務所の仲間たちは、全員助かったのだった。そして――。
 事件は解決した。

終章

 事件が解決した翌日、いくら自分たちから飛び込んだとはいえ、被害者役をやらせてしまったことは悪かった――と言って、鬼塚警視正から届け物があった。
 色とりどりの小さなそれは、落雁の詰め合わせだった。
「へえ、松月庵の干菓子じゃあないか」
 箱を開けた途端に目の色を変えたのは、イサムだった。
 ――松月庵の干菓子。
 梨奈が好物だと言っていた店のお菓子だ。これを食べそびれたのを理由に、梨奈は晴彦に冷たく当たるようになったのだ。
 詩織も箱の中を覗き込んで、うわあ綺麗なのです――と言って目を輝かせている。
 時間はすでに、夕方の六時を回っていた。すでに事務所は閉じている。冷房を効かせたい気分だが、そうもいかなかった。先日、詩織が発明の失敗をした折に、裏口の扉の窓ガラスが割れてしまって以来、まだ修理をしていないからだ。そのため、冷房を効かせても、冷たい空気が漏れてしまう。だから今は、急遽用意した扇風機と、窓ガラスのなくなった扉から吹き込んでくる自然の風で暑さを凌いでいる状況だ。
 普段は接客用として使っているこの部屋だが、今は団欒の場所と化している。机の上に干菓子の詰まった箱が置いてあり、イサムと詩織と晴彦がそれを囲んでいる。
 梨奈はいなかった。なんでも、買い物を済ませないといけないとか言って、いったん自宅へ帰ったのだ。雑用を済ませないといけないから、すぐに戻るようなことは言っていたが、いまだ姿を見せていない。
「さっそく食べるのです!」
 詩織が腕を伸ばす。しかし晴彦は、それを止めた。
「なんで止めるのですか」
「まだ梨奈が来ていない。梨奈が来たら、みんなで食べよう」
 ――また梨奈に冷たくされてはたまらないからな。
 晴彦の提案に、それはいいね――とイサムが頷いた。詩織はひとりで、ぶつぶつと文句を言っている。すぐにでも食べたい様子だ。
「まあまあ詩織ちゃん。落雁はなくなったりしないから、楽しみが先に延びると思えばいいじゃないか」
 とイサムが言った。それに納得したのか、詩織は、そうですね――と言った。しかし表情はいまだふくれっ面だ。心の底では納得していないのかもしれない。そんな心の中のしこりを紛らわすためか、詩織は表情を変えて明るく言った。
「それじゃあ私は、梨奈が来るまでの間、窓の修理をしているのです」
 そう言って、とととと、と事務室の方へ駆けていった。しばらくして、段ボールとガムテープを持って戻ってきて、まるで小学生の工作のように、窓に段ボールを貼り付けはじめた。
「それじゃあ僕は、その間にこの落雁を人数分に拠り分けておこう」
 とイサムが言った。そうしてくれるとありがたい。以前はそれでしくじったのだから。晴彦はイサムに、落雁の取り分けを頼んで、自分は事務室にこもった。
 今回の事件の報告書を書くためだ。

 ※

 いろんなことがあったが、文字にしてしまえばたった三ページほどに、事件の概要は収まってしまった。こんなものか――と思う。まあ、こんなものだろう。
 報告書を書き終わった晴彦は、そろそろ梨奈も戻る頃だろうと思い、ふたたび応接室へもどった。
 破壊された窓ガラスの跡は段ボールですっかり閉じられていた。机の上には、四人分に、落雁が分けられている。
 イサムの姿はなかった。
「イサムは?」
 ひとり残っていた詩織に尋ねると、トイレなのです――と詩織は答えた。
「それより晴彦くん。早くこの落雁を食べたいのです」
「そうだな」
 トイレにいるというのなら、イサムもすぐに戻るだろう。梨奈だってそのうち戻るに違いない。
「じゃあ、僕たちだけで、ちょっと摘もうか」
「そうするのです」
 晴彦と詩織は、ふたりで落雁を食べ始めた。
 ところが、待てど暮らせどイサムが戻ってこない。梨奈も姿を見せない。ふたりとも落雁を食べ終わり、
「遅いなあ」
 と晴彦が呟いたときだった。ようやくイサムが戻ってきた。
「いやあ、トイレも直さないといけないねえ」
 とイサムは言った。フィオ流にするべきだよ――とイサムは発議する。
「日本のトイレが悪いとは言わないけど、フィオ王国のトイレはもっと快適だよ」
 そうだとしても、それを作ってくれる業者はいないだろう。まあ考えておくよ――と晴彦は適当に答えた。
「さて、僕も落雁をいただくとしようかな」
 と、イサムも色とりどりの干菓子を抓みはじめた。そしてイサムが最後のひと粒を食べ終えたころ、
「遅くなってごめんね」
 と言いながら、梨奈が戻ってきた。
「梨奈」
 晴彦はソファから立ち上がり、にこりと梨奈にほほ笑みかけた。そして、
「松月庵の干菓子があるよ」
 と言った。
「ほんとに?」
 梨奈は目を輝かせながら、駆け足で机の方へ寄ってきた。
「イサム、梨奈の分を」
「え? 晴彦が持ってるんじゃないのかい」
「なんで俺が持ってるんだよ。人数分に分けたのはイサムだろ」
「確かに僕が分けたよ。梨奈ちゃんと詩織ちゃんと僕と先生の分にね」
「俺が人数に入ってないじゃないか」 

「晴彦の分はないよ」
「なんでだよ!」
「だって晴彦は、この前梨奈ちゃんの分を食べてしまったんだろう。だから今回は晴彦の分はないよ」
「待て――」
 まず、晴彦は梨奈の分を食べた覚えはない。そして、今回、晴彦の分がないとすると――。
「僕がさっき食べたのは、まさか――」
「なんだい、晴彦は食べてしまったのか」
 その通りだが、素直に頷ける状況ではなかった。晴彦は、恐る恐る梨奈へ視線を移す。
 案の定、梨奈は目を釣り上げて晴彦を睨んでいた。
「食べたの」
 状況から考えて、そうとしか考えられない。
「食べたんだね」
 と梨奈はもう一度言った。
「晴彦の馬鹿!」
 梨奈はひと声叫んで、晴彦に向かって歩み寄ってきた。
「ちょっと待て! 待てって梨奈!」
 晴彦は後ずさりながら梨奈を宥める。しかし梨奈は止まらなかった。止まらないばかりか、
「許さない!」
 と叫んで、ついには走りだした。晴彦も、梨奈に背中を向けて走り出す。
「わざとじゃないんだ! 事情を聴いてくれよ!」
 ふたりは机を中心にして、ぐるぐると部屋の中を駆けまわる。
「あははは」
 と声をあげて笑ったのはイサムだった。
「滑稽だねえ。そんなことより詩織ちゃん」
 イサムは詩織の前に片膝をついた。
「事件も無事に片付いたことだし、これから夜空でも見に行かないかい」
「はい?」
「空には無数の星がある。それは人間も同じだ。無数に散らばり輝く人間という名の星は、互いに輝き合える相手を探して常に迷っているんだ。そんな中僕たちは出会うことができた。この喜びを、夜空を見あげながらふたりで祝福し――」
 イサムは言葉を止めた。
 鼻先には銃口が突きつけられている。銃を持っているのは詩織だ。
「護身用光線銃RX★マモルくん・完成版――なのです。これの実験台になりたいのですか」
「い、いや」
 アハハ――と引き攣った笑顔とともに、イサムはゆっくりとソファに戻った。
「梨奈! これを貸してあげるのです!」
 直後、走り回っている梨奈に、詩織が光線銃を投げ渡した。梨奈はうまくそれを空中で受け取り、銃口を晴彦に向けた。
「物騒なものを渡すなよ!」
 晴彦はなおいっそう走り回る。その時だった。
 電話が鳴った。
 今は事件当日以上の危機に見舞われているわけだが、所長代理として、電話を無視するわけにはいかなかった。
 晴彦は背後を警戒しながら受話器を取り、そして言った。

「はい、こちら武智探偵事務所!」

 

 

(了)