黒猫町連続窃盗事件 2章:捜索

「つまり捨てろっていうことだよね」
 目を逸らせたままそう言ったのは、梨奈だった。隣りを歩く晴彦からは、横顔しか見えない。その横顔さえ、真っ直ぐに伸ばした茶色の髪に隠れて見えないのだ。そろそろ不機嫌の理由を聞くべきだろうと晴彦は思いながらも、梨奈の質問に答えた。
「そういうことだと思うよ」
 晴彦は、自分の着ているピンクのポロシャツの襟をめくって、その裏に仕掛けられている小型カメラを見る。
 事務所を出発する際に、晴彦を含めた事務所の仲間たちは、一度咲間に呼び止められた。そして咲間は、ひとりひとりの服に小型カメラを取り付けながらこういったのだ。
「私はみんなの味方だけど、いちおう見張り役っていう立場もあるからね。申し訳ないけどこれをつけてくれるかな。これをつけてもらえれば、建前上だけどみんなを見張っていることになるからね」
それに対してイサムは、従いながらも反論した。
「建前上とは言っても、僕らがあの弁当箱みたいな顔をした警視正とやらの気に喰わないことをやったら、咲間警視としても知らせないわけにはいかないんだろう。あの弁当箱の機嫌を気にしながら探偵業なんてやりずらいなあ」
「まあ殿下、そう言わずに。ただ、いくらこれをつけていたとしても――」
 咲間はそこで言葉を切って、ゆっくりとこう言った。

「――みんながこれを勝手に外しちゃったら、僕としてはきみたちの動向を探れなくなるばかりか、鬼塚警視正には何の報告もできなくなるんだけどね」

 そう言われた瞬間、みんな一様にぽかんとしていたのを晴彦は覚えている。晴彦を含め、ほかの仲間もおそらく意味がわからなかったに違いない。そして、おそらく誰も理解していないだろううちに、
「じゃあ、探偵のお仕事頑張ってね」
 と言って、咲間に事務所を送り出されてしまったのだ。
 そして今、梨奈が咲間の言葉の意味を理解したのだ。晴彦も薄々そうではないかと考え始めていたところだった。
 梨奈もまた、緑色のパーカーの襟の裏を見ながら言う。
「つまり咲間警視は、このカメラを付けはするけど、途中で外して捨てて、自由に行動しなさいって言ったってことだよね」
「そうだろうね。俺らが勝手にやってしまったことなら、咲間さんも見張りを怠ったことにはならないからね。咲間さんは自分の立場を守りつつも、俺たちの自由も確保してくれたんだ」
「それならもう、外しちゃおう」
 なんだか格好悪いし――と詩織は言って、襟の裏の小型カメラを引きちぎるように外した。そして、それを道端に投げ捨てる。
 ――なんだか格好悪いし。
 その梨奈の言葉で、晴彦は思い出した。自分の腕につけている時計のことを。
 いや、正確にはそれは時計ではない。時計の形をした通信機だ。ピンク色でハートの形をし、さらに翼の装飾があしらわれたそれは、いかにも乙女といった雰囲気を醸している。
 キューティーコミュニケーター★愛野萌芽ちゃん。
 それがこの通信機の名前だ。開発者の詩織はそう言っていた。
 ――なんだか格好悪いし。
 晴彦は梨奈の言葉をそのまま心の中で繰り返した。
 苦笑しつつ、自分が着ているピンク色のポロシャツの袖をまくりあげる。そして、通信機をいったん手首から外し、まくりあげた袖の下――腕の付け根あたり――にそれを付け直して、あらためて袖を下ろした。
 通信機は袖の下に隠れた。とりあえずこれで、人から見られることはないだろう。それに装着してはいるから、いざという時にはきちんと使えるはずだ。
「それにしても、何の手がかりもなく歩いててもねえ」
 梨奈は、ううんと背伸びをしながら眠そうな声を出した。
 緑色のパーカーの胸部分に染め抜かれている「UNIVERSITY SIMBOLS」という文字が、胸の膨らみによって、横に長く伸びている。白いホットパンツから伸びる足も、張りがあってしなやかだ。幼なじみだから大して気にしたことはなかったが、昔は、膝や頬を絆創膏だらけにしてそこらじゅうを駆けまわっていたお転婆娘だった。それが今では、すっかり成長して大人になっている。もっとも性格の上でのことなら、今でも充分にお転婆ではあるのだが。
 こうして梨奈と二人で白犬町を歩くのはいつ以来だろう、と晴彦は考える。今はデートといえば、一緒に遊園地へ行ったり、買い物をしたり、晴彦の家で過ごすかだ。こうして白犬町の中を歩くのは、小学生の時以来かもしれない。この町は黒猫町に比べて中流家庭が多く、駄菓子屋だとか八百屋だとか、あるいは土管の置いてある空き地だとかがあり、映画で見たことのある昭和の時代を彷彿とさせるようなところだ。
 もっとも、すべての住民が、そんな懐古的で一般的な人たちばかりではない。雨宮財閥の長という大人物も、この町に住居を構えている。そして、その財閥の令嬢が、この梨奈なのだ。この町の風情のおかげなのか分からないが、梨奈の感性は、一般的なそれとさほど変わらない。富裕層特有の価値観というものを、梨奈からは微塵も感じられない。本当なら、梨奈の一家だって黒猫町みたいな高級住宅街に住んでいたっておかしくはないはずなのに。
 晴彦にとっては、昔からそれだけが不思議だった。
 晴彦は、横を歩く成長した幼なじみを横目に見ながら、さっき梨奈のしたように、襟元に付けていた小型カメラを取って地面に捨てた。
 そのまま無言で歩く。昔懐かしい気分ではあるが、今は仕事中だ。不審な人物がいないか、目だけは常に周囲を警戒している。

「あのさ」
 と声を発したのは、梨奈の方だった。振り返ると、その真っ直ぐな茶髪がさらりとなびくところだった。釣り目が晴彦を捉える。まさか梨奈の方から声をかけてくるとは思っていなかったから、晴彦は一瞬たじろいでしまった。
「なに」
「本当にわからないの? あたしが不機嫌な理由」
 いきなり核心に切り込んできた。しかし、晴彦にもそれは本当にわからなかった。ごめん――と晴彦は言って下を向く。それを見て、梨奈は大きくため息をついた。そして、まったく鈍感なんだから――と言って、梨奈は、その釣り目をそっぽに向けた。
「あのさ、前に事務所へ内野さんが来たでしょ」
「内野さん?」
 晴彦は視線をあげて梨奈の横顔を見る。そっぽを向いていた梨奈は、視線を戻して、
「そう」
 と晴彦を見た。
 目が合った。おそらく、梨奈が不機嫌になってから初めて、まともに目を見合わせたかもしれない。やっと梨奈は心を開いてくれたのだろうか。晴彦は期待しながら、梨奈の次の言葉を待つ。梨奈は言った。
「ほら、こないだの事件の依頼者人」
「ああ」
 言われて、晴彦はようやく思い出した。そういえばそんな人がいたな――と大して感慨深くもなく思う。
「それで、その内野さんがどうしたの」
 晴彦は続きを促す。
「その時に内野さん、お菓子、持ってきたでしょ。事件を解決してくれたお礼だとか言って」
「お菓子?」
「そう。松月庵の干菓子」
「うん」
「晴彦、知ってるよね。あたしが松月庵の干菓子が好きだってこと」
「ああ……」
 知ってはいた。だが、普段からお菓子の話はさほどしないから、正直なところ忘れていた。だからうん、とも否、とも言えなかった。晴彦が返答に困っていると、梨奈は興奮したように少しだけ声を大きくして言った。
「その時の干菓子、あたし食べてないんだけど!」
「ああ、それは――」
 ごめん――と言おうとした晴彦だが、それより先に叫んでしまった。
「ええッ!」
「なに」
「ちょっと待った」
 晴彦は立ち止まる。梨奈もそれに合わせて足を止めた。
「もしかして、不機嫌だったのって、干菓子のせいだったの」
「そうだよ!」
 梨奈は肩を怒らせて釣り目をさらに釣り上げた。
「なんであたしの分を取っておいてくれなかったの!」
 すごい楽しみにしてたんだよ、あたしは――と梨奈はまくし立てる。
「ちょ、ちょっと待て待て」
 晴彦は、梨奈の両肩にそっと手を触れて優しく押し返した。
 そんなことで――と言おうとして、晴彦はその言葉を飲み込んだ。晴彦にとっては取るに足らないことだが、梨奈にとってはこの上なく重要なことだったのだろう。価値観というのはそういうものだ。
「わ、悪かった。それは謝る。でも俺は、梨奈の分は取っておいたはずだぞ」
「でも、箱の中身空っぽだったじゃん。ごみ箱の中に、虚しく捨てられてたじゃん。冷蔵庫の中にもなかったし!」
 そう言われても、晴彦には答えようがなかった。晴彦はその干菓子を、きちんと人数分に分けて、その時にいなかった梨奈と武智の分は取り置いておいたのだから。
「分かった分かった。でも俺は本当に、干菓子は分けておいたんだ。どうしてなくなったのかは分からないけど、今回の事件が解決したら干菓子くらいは奢ってやるよ」
「そんなこと言って、本当は忘れてたか数え間違えたんでしょ。それで今になってそんな言い訳してるんだ」
「それはいくらなんでも決めつけすぎだろ」
 思わず晴彦も声を荒らげる。そしてふたりは、しばらく睨み合ったあと、
「ふんッ」
 と同時に顔を背けた。腕を組んでそっぽを向いたままの姿勢で晴彦は思う。
 ――俺たちって大学生だよな。
 それなのに干菓子ごときで喧嘩をするなんて、まるで子供じゃないか。それに干菓子程度、雨宮財閥の令嬢くらいの人物だったらいくらでも買えるだろうに。庶民的な感性というのは好感が持てる一面だと思っていたが、こうなると逆に好感どころか嫌悪感しか感じられない。
 そんなことを考えていると、ふと、晴彦の視界の隅に、何かが映った。反射的にそちらへ視線を向ける。
 それは人間だった。黒いシャツに黒いズボン。高身長で痩せた男だった。そんなひょろ長い男が、民家を囲う塀を乗り越えて、道路に飛び降りたところだった。その民家の玄関先には、そこの主人であろう中年の男性が立っていて、箒で道を掃いている。男が塀を乗り越えたのは、玄関先で出喰わすのを避けたかったためだろう。いずれにしても塀を乗り越えるというのはあまりにも不自然だ。
「梨奈」
 松月庵の干菓子で揉めていたことなどすっかり忘れて、晴彦は梨奈に声をかけた。梨奈も同様だった。晴彦の呼びかけにすぐ、
「追うよ!」
 と応じた。ふたりは同時に駆け始めた。
 男は速かった。子供の頃から、決して駆け比べなどでも遅くはなかった晴彦と梨奈だが、その足を持ってしても男の足には追いつかなかった。
 黒猫町と違って、この白犬町は道が入り組んでいる。民家や神社、鮮魚店や服屋、空き地や工場などがごちゃごちゃと混み合っている。もし見失ったら、もう発見することは不可能だろう。ふたりは男が視界から外れないようにと、足に力を込めてひたすらに追った。

 駄菓子屋の前を駆け、郵便局を過ぎ、煙草屋の前を抜ける。
 そうして息があがって、汗がこめかみを伝うころ、ようやくふたりは、ある場所へたどり着いた。
 そこは、運送業者の倉庫のようだった。男はその敷地内に駆け込んで行き、姿を消した。
 晴彦と梨奈は、そこでようやく足を止め、息を整えることができた。
 まだ息は荒いものの、会話を出来る程度にはおさまった。ふたりは無言のまま、目の前の情景を眺めていた。「白犬運輸」と大きく書かれた、錆びた倉庫が並んでいて、敷地の隅には大型トラックが三台停まっている。
「なんでこんな所に入っていったんだろう」
「考えてたって分からないでしょ。踏み込んでみようよ」
 言うが早いか、梨奈は敷地内に向かって足を踏み出した。ちょっと待てよ――と晴彦は声をかけたものの、梨奈は振り向かなかった。そんな梨奈を追うような形で、結局晴彦も敷地内に踏み込んでいった。
 人けはなかった。
 蝉の鳴き声が降り注ぐ中、敷地内に敷かれた砂利を踏みしめながら、ふたりは倉庫に向かって歩いていく。
 やがて、倉庫の入口まで近づいた。赤く錆びた鉄の扉がふたりを阻んでいる。
 梨奈が、扉に手をかけた。きっとそんなに力は入れていないはずだ。それなのに、扉はひらいた。わずかに、蝶番の軋む音が響く。
 倉庫の中は暗かった。焼け付くような日光を浴びながら走っていたふたりは、目が慣れていないせいもあって、倉庫の中を見ることはできなかった。ただ真っ黒な闇が、扉の向こうには充満している。
 梨奈がさらに扉を押し開けた。蝶番が軋む。ふたりは倉庫の中に踏み込んだ。
 扉を半開きにしたまま、ふたりは慎重な足取りで倉庫の中を奥に向かって進む。
 少しずつ目が慣れてきた。薄闇の中に、ぼんやりと倉庫の中の風景が浮かぶ。
 倉庫の中には、ダンボール箱が乱雑に積まれていた。その他にも、箱に入らなかっただろうものが投げ捨てるような形で床やダンボールの上などに放り投げられている。
 闇に目がなれてくると、今度は窓から差し込んでくる日光の方が眩しく感じられるようになった。目を薄め、あたりを見渡す。
 ふと、晴彦の目が止まった。乱雑に積まれたダンボール箱。その上に、むき出しのまま絨毯が一枚乗っていたのだ。黄色の地に黒い縞模様が入っている。
 ――虎革の絨毯。
 盗品だ――と晴彦は思った。詩織が警察のパソコンをハッキングした時に、「紛失届」として出されていた中に「虎革の絨毯」といのがあったのを見た覚えがある。持ち主は確か、山本勇人といっただろうか。黒猫町の住人だ。
 まさか――と思っていると、さらに記憶にあるものを発見した。
 立派な角を生やした鹿の頭だ。
 ――鹿の頭の壁掛け。
 紛失届の中には、そんなものもあったはずだ。もしかしたら――。
 晴彦はさらに視線を巡らせる。またあった。今度は黄金色に輝く円くて大きな時計だった。
 ――黄金の壁掛け時計。
 これも紛失届を出された品物だ。
 ほぼ確定だな――と晴彦は思った。ここはきっと、黒猫町を襲った窃盗のアジトだ。
 「り――」
 梨奈とは別れて倉庫の中を探索していた晴彦は、相方の名前を呼ぼうとしたが、キャッという短い叫び声に遮られてしまった。その声に、晴彦は梨奈の方を振り向く。
 すでに目は慣れているので、梨奈の姿は良く見えた。
 梨奈は震えていた。
 梨奈の後ろには、ひょろ長い体格の男が立っていた。黒いシャツに黒いズボンを履いている。晴彦たちが追っていたあの男だということは、ひと目で分かった。
 男は梨奈の背後に立ち、梨奈の細い首に片手を巻き付けて押さえ込んでいる。その腕に梨奈は両手をかけているが、振りほどこうという意識はないようだ。さらに男は、もう片方の手に、銀色に輝く鋭利なものを持っていた。それを、梨奈の首元に突きつけている。
 梨奈は首元に恐怖を感じているのか、ホットパンツから伸びる張りのある白い足を、小刻みに震わせていた。
「動くな」
 と男が言った。梨奈に対してだけではなく、それが晴彦にも向けられた言葉であることは考えずとも明白だった。
 勢いで一歩踏み出してしまったが、晴彦は男の命令通り、それ以上は動かなかった。しかし、その一歩踏み出した足に、晴彦は違和感を感じた。男を刺激しないように、晴彦は顔を正面に向けたまま、視線だけ下に向けて足元を確認する。
 足元には、何か丸いものが落ちていた。
 時計だった。
 腕時計だ。しかもかなり特徴のある時計だった。ベルトの部分は、水晶玉を繋ぎ合わせたものになっている。
 これは――。
 晴彦はこの腕時計に見覚えがあった。この時計の持ち主。その名前は――。
 ――いや。
 晴彦は考え直した。同じ品物を別の人間が持っているだけかもしれない。まずはそうでないことを確かめる必要がある。
 そこで晴彦は、少し下を向き、口が相手に見えないようにしてから、得意の声帯模写を使って男にこう言ってみた。

「おい、なにをぐずぐずしているんだ」

 すると男は、それに反応したらしく、一瞬体をびくりと硬直させてから言った。

「う、右近さまッ!」

 きょろきょろとあたりを見渡す。
 右近さま――。
 男は確かにそう言った。それで晴彦は確信した。

 この男の背後にいる人物が誰かを。
 それは、今回の事件の依頼人であり、黒猫町の自治会長だ。名前は――。
 成瀬右近――。
 ――なぜ右近さんが。
 そう思わずにはいられなかった。右近は、自分が犯人である事件を解決してほしいと依頼してきたことになる。なぜそんなことを言ったのかがまるで分からない。晴彦は思考を巡らせたが、その答えも見つからないうちに、ひょろ長い男は右近がいないことに気づいたらしい。
「貴様、右近さまの声を真似たな」
 小賢しいやつだ、縛りあげろ――と男は言った。
 その声と同時だった。晴彦は背後に気配を感じた。十人ほどの屈強そうな男が、積まれたダンボール箱の後ろから姿を現した。そのひとりは麻縄を手に持っている。晴彦を縛るためのものだろう。
 じり、と晴彦は一歩さがったが、すぐにまた命令された。
「動くなと言っているだろう」
 晴彦は手を握りしめてぐっと力を込めた。動きを止める。
 男たちが寄ってくる。そして晴彦の腕や肩を抑えけた。腕を背後にまわし、手首をきつく結ぶ。晴彦は若干の痛みを覚えつつも抵抗はしなかった。梨奈を人質に取られているのだから仕方がない。
 手首を縛り終えると、男たちは今度は、晴彦の胴体を、腕ごと縛りあげた。二の腕が脇に密着したまま動けなくなる。
 自由を奪われた晴彦は、ただ男たちを睨むしかなかった。眉間に力を込めて男たちに怒りの視線を向けていると、いきなり胸に強い衝撃を受けた。蹴られたのだ。晴彦は耐えきれず、そのまま後ろに倒れ込み、背中を壁にぶつけた。痛みに耐えていると、梨奈を人質にとっていた男がさらに言った。
「この女も縛れ」
 命令に、晴彦を縛りあげた屈強な男達が従った。
「いやッ」
 と梨奈は叫び、ひょろ長い男から逃れようともがく。しかし男に首を押さえ込まれているので逃げられない。やがて梨奈もまた、晴彦と同じように後ろ手に縛られ、さらに胴体も腕ごと縛り上げられ、どさりと晴彦の隣りに押し倒された。
 晴彦と梨奈は、手首を後ろ手に縛られ、さらに二の腕を脇に密着させる形で胴体ごと縛りあげられ、ひどく不自由な状態で床に座らされることになった。尻と背中に、コンクリート特有の冷たさを感じる。
「大丈夫か」
 晴彦は、自分の隣りに押し倒された梨奈を気遣う。さっきまでは対立していたが、こうなっては対立などしていられない。梨奈は痛みをこらえているのか、小声で、うん――と答えた。ひょろ長い男を含む十数人の男たちが、晴彦たちを半円形に取り囲む。
 ――これまでか。
 覚悟を決めた時だった。
 くくくくく――と声が聞こえた。押し殺したような笑い声だ。その声と同時に、ふたりを半円形に囲んでいた男たちが、真ん中から左右に割れた。その割れ目の向こうには、また別な姿の男がいた。
 こつ、こつ――と靴音を立てながら、その男は晴彦たちに歩み寄ってくる。そして歩み寄りながら、男は言った。
「さすが名探偵諸君だねェ。こうも鮮やかに推理してくれるとは」
 こつ、こつ――と靴音が冷たく響く。
「パターンを掴むために最低限必要な、三つのデータ――」
 こつ、こつ。こつ。こつ。男は暑いというのにタキシードをまとっている。
「パターンを読ませた犯人が裏をかくこと――」
 こつ、こつ。こつ。頭にはシルクハットを乗せている。
「裏をかく犯人が次に狙う先が白犬町であること――」
 こつ、こつ。くるりと丸まった細い口髭。
「私が用意した材料から、次の犯行先と我々のアジトを、よく推理したものだ」
 こつ。
 男は、晴彦たちからおよそ一歩分ほどの距離にまで近づいて立ち止まった。
「すべて私の計算どおりだよ」
 男の右目に嵌っている片眼鏡がきらりと光った。
 成瀬右近――。
 晴彦が予想していた、窃盗犯の黒幕だ。

  ※

 甘美な――という表現が合うだろうか。縛りあげられた美少年と美少女という画はなかなかな見ものだ。
 右近は晴彦と梨奈を見下ろしながらそんなことを考えていた。
 赤髪にピンクのポロシャツを来た晴彦とかいう青年は、縛られてもなお、気持ちの上だけでも反抗したいらしい。さっきまでは右近を睨みあげていたが、今は顔を横に向けて、ついでに目も逸らせている。白いチノショートパンツからすらりと伸びる足は、左膝を立て、右膝を倒している。背中をぐったりと背後の壁にあずけているところを見ると、やや憔悴しているのかもしれない。
 その左隣には、梨奈がやはり縛られた状態で座り込んでいる。梨奈は晴彦とは対照的に、まったく反抗的な様子は見られない。胴を巻いた縄に締め付けられているおかげで、豊かな胸の膨らみが強調されている。緑色のパーカーの胸部分に白く染め抜かれた「UNIVERSITY SIMBOLS」という文字が、縄に隠れて一部見えなくなっている。
 長く伸ばした茶色の髪は、さらりとしているが、やや汗が絡んでもいるようだ。二重の、ちょっと目尻のつり上がった目からは、気の強そうな印象をはじめは感じたものだが、今はそんな気配はまったくない。むしろ、八の字に歪められた眉と、涙が浮いている目からは、不安げな雰囲気を感じる。視線は左下を向いていて、まるで覇気がない。怯えているのだろう。
 肩の間に首を埋めるように縮こませ、足は両膝を揃えて、隣りにいる晴彦の方へいくらか傾げている。張りのある太ももが右近をそそる。
 ふたりは気が弱くなっているのか、ひと言も話そうとしない。
「さて――」

 右近は喋ろうとしたが、ふと思いだした。このふたりの勤める探偵社には、確かメカニックの天才がいたはずだ、ということを。
 もしかしたら、アニメで有名な怪盗のように、体のどこかに何か仕掛けがあるかもしれない。
「このふたりの体を調べろ」
 手下にそう命じた。手下は無言のまま、右近の命令に従った。わらわらと二人に群がり、ふたりの体をまさぐる。この時になって、さすがに嫌悪感を感じたのか、ふたりはそれぞれに抵抗するように声を出した。
「やめろ!」
「嫌ッ!」
 同時に体をくねらせる。しかし縛られているのでろくな抵抗はできなかった。しばらくして、手下たちは嫌がるふたりから、携帯電話を取りあげた。それから、晴彦からは腕時計を取りあげた。これで、堀を埋められた城のようなものだろう。あとはじっくりと攻めるだけだ。右近は口髭を指でつまみながら、二人の前にしゃがみ込んだ。片眼鏡の位置を調節しながら、右近は言う。
「今の気分はどうだね」
 しかしふたりは無言でその問いに応じた。答える気はないらしい。逆に晴彦が右近に質問をぶつけてきた。
「さっきのお前の言葉が気になる。俺たちの推理が、お前の予想どおりだったってのは、どういうことだ」
「立場を弁えずによく喋るものだ」
 しかし、まあ良いだろう――と右近は言った。
「そのまんまの意味さ。人は与えられたそのままの情報よりも、自分で考えて至った答えを信じたがるものだ。だから窃盗事件の場所を君たちに推理させて、突き止めさせたのさ。そうしたら見事にこの場所まで突き止めてしまった。そして、まんまと罠にかかってしまったわけだ」
「罠?」
 か細い声を震わせて言ったのは梨奈だった。その通り――と右近は頷く。
「考えてもみたまえ。搜索範囲は、この白犬町全体だ。そこをたったふたりで捜索して、たまたま出会った空き巣を追ってたまたまたどり着いた先が、たまたま自分たちの請け負った窃盗事件の犯人のアジトだったなんて、そんな偶然があると思うかね」
 ふたりの目を交互に眺める。晴彦は悔しさを感じたのか、奥歯を強く噛みしめたようだ。梨奈は相変わらず不安げに目を斜め下に向けている。
 右近は続けた。
「身をひそめるために自治会長の座につくのには苦労したよ。しばらくはここに拠点を置いて、黒猫町を餌食にしようと考えていたんだが、きみたちの事務所を知ってからどうも危ないと思っていたんだ。これじゃあ安心して盗みもできないとね。だから、こうしてきみたちを罠に嵌めたのさ。ほかにも仲間がいるようだが、あとはきみたちを人質にして迫れば、簡単に捕まるだろうさ」
「つまり、俺たちを潰すのが目的だったわけか」
「簡単に言えばそうだね」
 右近はそう答えた。
「だったら、なんで推理させるような真似をするんだ。これだけの仲間がいるなら、事務所を襲撃すればそれで片付くだろうに」
「尤もな疑問だね」
 右近は満足して大きく頷いた。名探偵ならそう来なくてはならない。
「事務所を潰そうとしているのは間違いない。しかし、目的はそれだけじゃない。いくら名探偵の諸君でも、その理由までは分からないだろう。ヒントは私の職業だ」
「職業」
「そう。私は組織の長だ。そこで私立の軍を作ろうと思っている。軍と言っても、鉄砲を撃ったりミサイルを飛ばしたりするような物騒な集団ではない。先を読み、相手の裏をかくことで常に情勢を優勢に保つ天才集団だ」
 晴彦も梨奈も、ひと言も発さない。きっと右近が何を言おうとしているのかを理解できないでいるのだろう。しかし頭の中では、必死に意図を探ろうと脳を回転させているに違いない。
 ――そう。
 それでいいのだ。右近は口許が緩むのを抑えられたなかった。
「きみたちなら知っていると思うが、現在でも夏目漱石の脳は、エタノールに漬けられて、東京大学に保存されている。これが何故だか分かるかね」
「それが解剖学者の、偉人に対する敬意の表し方じゃだからじゃないの」
 小さな声でそういったのは、梨奈だった。
 怯えて声も出せないでいると思っていた梨奈が口を開いたので、右近は少し意外に思った。
「その通りだ。さすが財閥の令嬢となると学があるものだね」
 右近はしゃがんだ体勢のまま、梨奈の方へ少し近寄った。顔を近づける。梨奈は嫌そうに顔を横に背けたが、右近は梨奈の顎に指をかけて、ぐいと自分の方へ無理やり振り向かせた。顔だけは右近の方を向いたものの、梨奈はせめてもの抵抗のためか、それとも右近に嫌悪感を感じているのか、あるいはその両方か、視線だけは右近の方へ向けようとしない。その微かながらも必死な抵抗が健気で、右近の嗜虐癖をくすぐる。
 右近は、梨奈の顎から手を離し、その手を梨奈の太ももにそっと当てた。
「嫌ッ」
 梨奈は、膝を曲げて腿が体に密着させるかのようにしたが、その抵抗がまた愛らしい。右近は、その張りのある腿に当てた手に、わずかに力を込めた。弾力のある肌に、指が柔らかく喰い込む。
「嫌――」
 梨奈は、目をぎゅっと閉じて、右近の接触に耐える。
「やめろ!」
 叫んだのは晴彦だった。しかしいくら叫ぼうが喚こうが、縛られている青年を警戒する必要はまったくない。右近は蔑みを視線に込めて、晴彦の目を見た。
「ところで、夏目漱石の脳の話をしていたのだったな。さっき、こちらのお嬢さん――梨奈というのか――が話していたように、脳を保存するというのは、それが解剖学者にとっての、偉人への敬意を表し方だからだという一面のもある。しかし――」
 それは表向きの話だ――と右近は言った。
「実際は――」
 しゃがみ込んでいた右近は、そこで一度立ち上がり、ふたりを見下ろしながら言葉を続けた。
「――天才の研究をするためなのさ」
「天才の研究?」
 晴彦が繰り返す。その通りだ――と右近は答える。

「いいかね。どんなに強力な兵士が集まっていたとしても、あるいはどんなに多くの金を持っていたとしても、それを使いこなせる頭脳がなければ、兵士はただのでくの坊でしかないし、金もただの金属片と紙切れと電子記録でしかない。しかし――」
 右近は片眼鏡の位置を調節する。
「――もし、それを使いこなせる指揮官や経営者がいたらどうなると思う」
 考えるまでもない――と右近は言って、ふ――と笑った。
「軍隊であれば国を制圧することも出来るし、経営者であれば経済を牛耳ることも可能だ。つまり、少々質の悪い材料でも、それを使いこなせる頭脳の持ち主がいれば、最大限の効果を発揮させることができる――」
 つまりは世の中を制圧することができるのだよ――と右近は言った。
「そこできみたちを潰すと同時に、その脳みそを研究のためにいただこうと思ったのさ。そして、脳が最も活発に働いている時、つまりはきみたちが推理をし、こうして窮地に落ちている時の脳みそをこそ、我々は望んでいるのだ。だから推理させ、こうして窮地に追い詰めたというわけだよ。分かっていただけたかな」
 右近はふたりの顔を交互に見つめる。晴彦は眉間に皺を寄せて怒りの表情を浮かべ、梨奈は釣り目を滲ませて恐怖の表情を表している。
「いい顔をしているじゃあないか。まさか自分たちの推理が、こちらの思い通りだったとは思わなんだだろう。ふふ――」
 あははははは――と右近は、ふたりを見下すために高笑いをした。ふたりは案の定、悔しそうに顔をしかめている。
「本当はこの町が居やすいから、当分はここに根を下ろそうと思っていたが、きみたちの知り合いに警察がいるということを知ったのでね。まだ力を持たない我々は、捕まる前に引っ越すことにしたのだよ」
 最後にきみたちの事務所を潰してからね――と右近は、ふたたび笑った。

 ※

 高笑いをする右近を、晴彦はただ見上げることしかできなかった。細い口髭を揺らし、片眼鏡を光らせながら笑うその姿は、見ていて気持ちのいいものでは決してなかった。悔しい思いを堪えなければならいのは腹の立つことだったが、それよりも梨奈が大丈夫か晴彦は心配だった。手首を結んでいる縄は、かなりきつく締められているに違いない。横目に梨奈の腕を見ればわかる。縄より末端の手の部分が、赤くなっている。血液がうまく循環していない証拠だ。表情を見れば、少し俯き加減の顔と、眉尻を下げた表情から、不安げな気持ちを抱いているに違いないことが見て取れる。
「せいぜい、そこで仲間が捕まるのを待っているといい。それからじっくりと人体実験の材料とさせてもらうからな」
 右近が言った。そして右近は、手下に向かって、よく見張っておけ――と指示をしてから、背中を向けて倉庫から去っていってしまった。
 残った手下は、ふたりをここに誘導してきたひょろ長い男を含めて十一人だった。これだけの人数に見張られ、しかも縛られていたのでは手が出せない。
 ――どうするべきか。
 晴彦は考えた。と言っても、この状況を打開する策など、考えて思いつくものではないかもしれないが。
 なすすべもなく黙っていると、見張りの男たちは立ち疲れたのか、それぞれに散っていって、そこらじゅうに置かれている段ボール箱に座った。いくらか距離は取れたものの、視線はこちらを向いている。警戒は怠っていないようだ。
「晴彦」
 かすかに優しい声が聞こえた。反射的に振り返る。
 隣に座っている梨奈が、穏やかな笑みを浮かべていた。
「振り向かないで」
 咄嗟に梨奈はそう言った。会話をしていたら何をされるかわからない。だから振り向かず、小声のみで話をしろ、という意味だろう。
 梨奈のそんな考えを察して、晴彦は顔の向きを戻した。
 ふたりは、顔を見合わせないままこそこそと話す。
「どうした、梨奈」
「晴彦はやっぱり頭がいいね」
「どうしたんだ」
「さっき携帯取られたでしょ。それから時計も。それで奴らは油断してる。携帯を取りあげたことで、きっと通信手段をあたしたちから奪ったものだと思っているかもしれない」
「そ――」
 その通りだろう――と言おうとして、晴彦は思い出した。
「そうか」
 この危機的状況。縛られたままの晴彦と梨奈だけでは、到底打開はできないだろう。でも――。
 もし助けが呼べたなら、話は別だ。
 そして、助けを呼ぶことはできる。縛りあげられて両手が使えず、しかも携帯を取上げられたこの状況でも、だ。なぜなら、晴彦の腕の付け根には――。
 『キューティーコミュニケーター★愛野萌芽ちゃん』が装着されているからだ。
 その通信機は、開発者の独特な感性のおかげで個性豊かな意匠となっている。晴彦はそれを人に見られないようにと腕の付け根に装着し、着ているポロシャツの袖で隠しておいたのだ。連中はさっき、晴彦の腕時計をひとつ奪っているから、それ以上は腕には何もつけていないと勘違いしたのだろう。袖に隠していたおかげもあって、この腕時計型通信機は奪われずに済んでいた。まだしっかりと、晴彦の腕の付け根に装着されている。
「こうなることを予想して、袖の裏に隠しておいたの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
 ふふふ――と梨奈は笑った。もちろん小声で、だ。
「そんなわけないよね。それはともかく、それで早く詩織とイサムくんに連絡を取って」
 そうだな――と晴彦は頷いた。
 そのために、まずは見張り役の男たちの様子をうかがった。

 男たちはそれぞれに、煙草を吹かしたりあくびをしたりしている。晴彦たちを見張る目線は、すでになかった。ものを取り上げたうえに、この人数だからかえって油断しているのかもしれない。これは好機だ――と晴彦は思った。イサムたちに連絡を取るのは今しかない。
 しかし困ったことに、通信機はボタンを押さなくては機能を使うことができない。しかし晴彦は腕を縛られているから、ボタンを押すことができなかった。そこで――。
「梨奈」
 喧嘩中の恋人の名を呼んだ。
「なに」
 喧嘩中とは言っても、さっきの梨奈の表情から察するに、すでに心のしこりは取れているだろう。それでも久しぶりに恋人と打ち解けられることは嬉しかった。
「俺の肩に通信機が付いているから、ボタンを押してくれないか。肩を寄せれば、押せるはずだ」
「わかった」
 梨奈はにじるように晴彦に近づいてくると、自分の肩を晴彦の肩に擦りつけ始めた。あくまでも目立たないように、怪しまれないように慎重に。
 梨奈の髪が晴彦の頬に触れる。肌のぬくもりが服越しに伝わってくる。女性特有のいい香りがする。これで助かったら、きっと梨奈とは元のように、いやそれ以上に親密な関係になれるだろう。なんと言っても、ふたりの窮地を救う通信機の名前は、『愛野萌芽』なのだから。新しく愛が芽吹くのだ。
 ――くだらない。
 思わず苦笑しそうになった。窮地だというのに。
 かちり、と音がした。続いて、ざざ、と雑音が鳴る。通信機のスイッチが入ったようだ。
 少しの間を置き、
〈やあ、我が親友よ。どうしたんだい〉
 イサムのキザな、そして呑気な声が通信機から聞こえてきた。幸い、あたりに響くほどの大きな声ではない。
「助けてくれ。捕まっちまった」
 見張りたちを警戒しながら、晴彦はまずそう言った。
〈穏やかじゃないねえ。よし、助けに行ってやろう。僕に任せるといい。運命の恋人(ディステニー・ラバー)である詩織ちゃんとともに――〉
〈やかましいのです!〉
 詩織の声が割り込んだ。
 ――何やってんだ。
〈もしもし、晴彦くんなのですか。どうしたのですか〉
 詩織がイサムのかわりに話しに応じたようだ。
 捕まった――と晴彦はもう一度言った。
〈捕まったって、大丈夫なのですか。場所はどこなのですか〉
「場所は――」
 正直、所番地はわからなかった。必死に走ってきたので方向を見失ってしまったというのが正直なところだ。幼いころはずっと遊んでいた町だが、今はもう、すっかり景色が変わっているせいでもあった。それでも場所を伝えないわけにはいかない。
 晴彦は思い出した。今いる倉庫の外側には、確か「白犬運輸」という文字があったはずだ。それなら目印になるかもしれない。
「場所は、白い――」
「おいッ」
 いきなり、見張り役のひとりが声を荒らげた。白犬運輸と書かれた倉庫だ――そう言おうとした晴彦の言葉は遮られた。
 声を荒らげた男が、立ち上がって晴彦たちのように歩いてきた。歩きながら、ポケットからガムテープを出す。
 男は大股で近づいてくると、晴彦たちの目の前まで来て、足を止めた。そして、ガムテープを長めに切り取ると、片手で晴彦の赤髪を掴んだ。う――と晴彦は呻く。髪を後ろに引っ張られ、晴彦は力づくで上を向かされる。その晴彦の口を覆うように、男はガムテープを貼り付けた。
「んんッ」
 言葉を発することができない。晴彦は身をひねる。抵抗するつもりではなかったが、思わず手首を結ぶ縄の緩んでいることに気づいた。もしかしたら、縄を解くことができるかもしれない。晴彦は目立たないように手首を動かしてみた。縄が緩んでいく。
 その間にも、男は今度は梨奈の髪を掴んだ。
「痛いッ」
 梨奈は叫んで、痛みに顔を歪める。男は同じように、ガムテープを切り取って梨奈の口へ貼り付けた。
「ん、ん――」
 梨奈も呻くばかりで言葉を発することができなくなった。
 そして男は、言葉の自由を失ったふたりを見下ろして、一瞬だけ下卑た笑みを口元に浮かべた。優越感に浸っているのだろう。
〈どうしたのですか。晴彦くん、晴彦くん!〉
 通信機からは、詩織の声が依然と聞こえている。さほど大きな声ではないが、この距離ではさすがに男にも気づかれたらしい。
「てめえ、何か付けてやがるな」
 男はそう言うと、晴彦が着ているピンク色のポロシャツの袖をまくりあげた。
 二の腕が顕になる。そして――。
 ピンク色の通信機が男の目に止まってしまった。
〈晴彦くん! 晴彦くん!〉
 通信機からは、なおも詩織の声が聞こえている。
「小賢しいものを付けやがって」
 男は、引きちぎるかのように、無理やり通信機を奪うと、それを思いっきり床に叩きつけた。透かさず足で踏みにじる。
 通信機は砕け散り、部品が虚しく弾けとんだ。それでも――。
 まだ晴彦は希望を捨ててはいなかった。両手を縛る縄が、もう少しで解けそうだったからだ。縄が解ければ――この人数の男たちを全員倒すのは無理だろうが――梨奈と共に出口を目指して、一点突破して脱出することくらいは可能かもしれない。いや、通信機を破壊され、しかも正確な位置情報を仲間に知らせることができなかった今、それより他に助かるすべはなかった。
 晴彦は身を悶えさせるようにして、縄の開放を急いだ。しかし――。
「何を動いているッ」
 少し激しく動きすぎたのかもしれない。男に気づかれてしまった。男は晴彦の胸ぐらをつかむと、ぐいと持ちあげた。その力に、晴彦の体は簡単に宙に浮いてしまった。
「大人しくしてねえと、ぶッ殺すぞ」
 男は晴彦の額に自分の額を近づけ、そう低い声で言った。しかし晴彦は怯まなかった。ガムテープを貼られて言葉も使うことができないが、睨むことは出来る。この悪漢どもに屈服するのは悔しい。だから晴彦は、ありったけの憎しみを込めて男の目を睨んでやった。

※挿絵イラスト提供は、Rejony様。

「なんだ、その目は」
 男はまっすぐに晴彦の視線をにらみ返す。瞬きひとつしない。男はポケットから鋭利なものを取り出すと、それを晴彦の首筋に当てた。金属特有の冷たさを感じて、晴彦は身を固くした。少しでも動けば、間違って切り裂かれかねない。
「どうする。逆らって殺されるか。それとも大人しくしてもう少しだけでも生きるか」
 男は刃物の切っ先を、ぐいと強く押し付けた。首に痛みが走る。刺さってはいないが、刃物の先端が皮膚に強く突きつけられているのが分かる。
「大人しくするか」
 再度、男が問いかけてきた。晴彦は唾を飲んだ。そして、わずかに首を上下に動かした。それを見た男は、今度は梨奈に視線を向けた。梨奈はそれに気づいたらしく、やはり、こくりと頷いた。頷かざるを得ないだろう。
 それを確認した男は、掴みあげていた晴彦の胸倉から手を離した。急に手を離されて、晴彦の体はコンクリートの床の上に落ちた。尻に痛みを感じる。くう、と思わず呻いてしまう。隣りを見ると、梨奈が心配そうな目で晴彦を見ていた。晴彦は大丈夫だということを、頷くことで梨奈に伝えた。
「おい」
 また男が声をかけてきた。
「縄が緩んでるじゃねえか」
 男はそう言うと、晴彦の手首を拘束する縄をぎゅう、と引っ張った。緩みかけていた縄が締まり、手首が締まる。手のひらから指先までが破裂しそうな感覚に襲われる。充血しているのだろう。もう手首の自由は効かなくなった。一点突破の考えも、これで潰された。
 男は晴彦の縄を限界まで締めあげると、今度は同じように梨奈の手首を拘束する縄も占めあげた。
「くうう」
 痛みに耐えているのだろう。梨奈は呻き声をあげ、目を固く閉じた。
 白くてか細い手首に縄が喰い込み、締めあげる。充血して手が赤くなり、いくらか血管が浮いた。
「これで、もう抵抗できないだろう」
 げへへ――と男は下品に笑ってふたりを見下ろした。

 ※

「場所は、白い――」
 そこで声は途切れてしまった。それでも詩織は、イサムの腕にしがみつくようにして、なおも通信機に向かって晴彦くん、晴彦くんと呼び続けている。しかし返事はない。一度大きな音がしたのは聞いたが、それからは雑音ひとつ聞こえなくなってしまった。
「ひょっとしたら壊されたかもしれないのです」
 晴彦を呼ぶのを諦めた詩織が、イサムの顔を見あげながら、そう言った。円い眼鏡の奥で、円い瞳が潤んでいる。晴彦たちを心配しているのだろう。イサムも晴彦たちが心配ではあったが、それを見せてはいけないような気がした。イサムまで狼狽しては、このコンビは混乱するばかりだろう。そこでイサムは、努めて明るく振る舞った。
「なァに大丈夫さ、詩織ちゃん。通信機は確かに壊れてしまったかもしれないけど、晴彦たちはきっと無事さ」
「どうしてそんなことが言えるのですか!」
 きりっとした表情で、詩織はイサムを見あげる。青いツインテールがさらりと揺れる。
「だってさ――」
 イサムは詩織の、華奢な肩に手を置いて、ゆっくりと言った。
「もし殺すつもりなら狙撃でもすればいい。でもさっきの晴彦はなんて言ってたか覚えてるかい。〝捕まった〟って言ってたんだ。殺すのではなくて〝捕まえた〟のであれば、まだ殺すつもりはないっていうことだ。仮に殺すのだとしても、それまでにはまだ時間があるということだ。違うかい」
「それは――」
 そうなのかもしれないのです――と詩織は、語尾をすぼめた。少ししょんぼりしているように見えるのは、それでもまだ不安が残るからだろう。
 イサムはさらに詩織を励ました。
「そう落ち込むことはないよ、詩織ちゃん。僕らが助けに行けばいいだけの話じゃあないか。さあデスティニー・ラバー、運命の恋人よ。ともに仲間を――」
 不意に鼻先に激痛を感じて、同時に脳が揺れた。少し意識が遠のいたが、失神までには至らなかった。イサムの鼻には、詩織の拳がめり込んでいた。
「冗談を言っている場合ではないのです!」
「そ、そうだね……」
 しかしここまで元気になってくれれば、もう大丈夫だろう。イサムはそう考えて、詩織に尋ねてみた。
「詩織ちゃん。きみの賢い頭脳で、晴彦たちの居場所を突き止められないのかい」
「無理なのです」
 詩織は即答した。円い目が涙で揺らいでいるように見える。
「どうして。いつもみたいにコンピュータで――」
「ハッキングはコンピュータがないとできないのです。それに、もし私がコンピュータを持っていたとしても、相手もコンピュータを持っていてくれなかったら意味がないのです!」
「ああ」
 ものすごく当たり前のことだった。今、詩織はコンピュータを持っていない。ノート型パソコンさえ持っていないのだ。ハッキングのしようがない。
「ということは――」
 イサムは顎に指を当てた。
「手がかりになるのは、晴彦の最後の言葉だけということか」
 通信が途絶える前に、晴彦はこう言っていた。

 場所は、白い――。

 おそらくそれに続く言葉があったのだろう。しかし、イサムにはそれが何か分からなかった。それを詩織に相談すると、詩織も顳かみに指を当てて首を傾げてしまった。表情が曇っている。つまり、思いつくことがないということだろう。
「やっぱり手がかりはなしか」
「そうですね。白犬町にいるということは分かっているのですが、それだけでは範囲が広すぎるのです。それでは探しようがないのです。こうなると、もう――」
 は――と詩織は、いきなり声をあげた。
「どうしたんだい」
イサムが尋ねると、詩織は顔をあげて、その眼鏡の奥の大きな円い瞳をさらに丸くして言った。
「よく考えてみると、おかしいのです」
「なにが」
「だって、晴彦くんたちが白犬町を捜査することは、事務所を出た時から分かっていたことではないですか」
「そうだけど、それが、どうおかしいんだい」

「こう考えてみればわかるのです」
 詩織は人差し指を立てて、眼鏡を押しあげた。目を閉じ、澄まし顔を作って言葉を続ける。
「私たちは地球人なのです」
 いきなり頓狂なことを言われたような気がして、イサムはどう返事をしていいのか分からなかった。とりあえず、そうだね――と言って頷く。詩織はさらに続けた。
「地球人である私たちが、もし電話で人から居場所を尋ねられたとして、地球の、という説明の始め方はまずしないのです」
「当然だね。地球に住んでいるのはわかっているんだから」
「そうなのです。同じようなことが、晴彦くんたちにも言えるかもしれません。私たちの中では、晴彦くんたちが白犬町にいることは知っていて当たり前のことなのです」
「ああ、なるほど」
 さすが詩織だ。イサムは納得した。
「つまり、晴彦が言った〝白い〟という最後の言葉は〝白犬町〟の言いかけでは〝なかった〟ということが言いたいんだね」
「なんで先に言うのですか! ここは私の見せ場なのです!」
 背の小さな詩織は、肩を怒らせて、必死にイサムに喰らいつく。
「わ、悪かった、悪かったよ」
 イサムは両手の手のひらを詩織に向けて、怒声をあげる詩織をなだめる。
「まあ、今はそれどころではないので許してあげるのです」
「ありがとう、詩織ちゃん。それで、〝白い〟という言葉が白犬町でなかったとしたら、何を指しているんだろうねえ」
「それは――」
 詩織は首をかしげて、頬に指をあてた。沈黙がふたりの間に横たわる。
 一台のトラックがふたりの脇を走り抜けた。トラックの荷台には、大きくこう書かれていた。
 白犬運輸――。
「これだ!」
 ふたりは同時にそう叫んだ。
「白犬運輸関係の建物が見える場所に違いないのです!」
「もしくは白犬運輸の建物そのものか」
「どちらにしても、そうなるとだいぶ範囲が限られてくるのです」
 詩織はそう言うと、急に走り出した。白いテニススカートがひらひらと揺れて、ほっそりとした足が地面を力強く蹴る。
「詩織ちゃん! どこへ行くんだい!」
 イサムが呼び止めると、詩織は振り返りもせず、走りながら言った。
「色犬町は私も詳しいのです! 白犬運輸関係の場所というなら私が分かるのです! だから着いてくるのです!」
「それは頼もしい! じゃあ詩織ちゃん、案内は頼んだよ!」
 イサムも詩織のあとを追って駆け出した。しかし――。
 ふたりはすぐにその足を止めることになった。
 前方から、女性が走ってきたからだ。といっても、ジョギングをしているような呑気な走り方ではない。時おり後ろを振り返りながら、何度もつまづき、そして転びそうになりつつ、その女性は懸命に走っている。
 見れば相当の美人だった。細い体に白いワンピースをまとい、金色の髪をなびかせている。睫毛の長い瞳には艶やかな憂いが浮いている。
 それを見て、イサムは放っておけなくなった。そういう性分なのだ。イサムは女性の行く手に立ちふさがると、片手を逆側の肩に当て、優雅に頭を下げた。
「これはこれは、どうしたことですか、ご婦人。そのように必死に駆けているなんて、ただごとではありませんね」
 女性は怯えるように立ち止まった。片足を後ろに引き、体をのけぞらせて肘をイサムに向ける。
 はっはっは――とイサムは快活に笑った。
「そう怖がることはありませんよ、僕はすべての女性の味方ですからね」
「何を言っているのですか!」
 イサムの横から詩織が怒声をあげた。
「今は一刻も早く晴彦くんたちを助けるのが先決なはずではないのですか!」
「そうは言うけどさ、詩織ちゃん。こちらだって放ってはおけないだろう」
「それは――」
 詩織は円眼鏡の奥の円い目に戸惑いの色を浮かべながら金髪の女性を見る。そして――。
「――そうですけど」
 と小さな声で言った。
「だろう? 僕らは正義の味方として、すべての困った人の味方をするべきなんじゃないかい」
「私たちは正義の味方ではなくて、探偵なのです」
「ハハン。探偵こそ正義の味方なのだよ――さあ」
 イサムは、茶色のマッシュヘアの前髪の合間から覗く切れ長の目で女性を見つめた。
「お困りのことがありましたら、なんなりと仰ってください。どうして、そのように急いでいるのですか」
「それは――」
 女性は少し警戒を緩めたらしい。仰け反らせていた体を元に戻し、口許を手で隠しながら視線を斜め下へ向けた。
「実は――」
 追われているのです――と女性は言った。
「追われている? 誰に」
「それは申せません」
「そうですか。それでは仕方がありません。ではせめて、追っているのが男なのか女なのか、それだけ教えてもらえませんか」
「え」
「それによって助け方が変わってくるのです」
「そうなんですか」
女性は金髪を指先でいじりながら、男です――と答えた。
「男ですか。分かりました。それならこっちへ来てください」
 さあ――とイサムは言って、女性のしなやかな手を自然にとって駆け始めた。
「ちょっとイサムくん! どこへ行くのですか!」
「詩織ちゃんも早く、こっちへ!」
 イサムは走りながらそう答えた。
 道を逸れ、イサムは近くの公園へ入っていく。そして、そのまま公衆トイレに駆け込んだ。それも女子トイレへ、だ。
 入る直前、さすがに女性は抵抗した。
「あなたは男性ですよ!」
「ええ。しかし、追っ手を撒くなら女子トイレがいいのです。さあ早く、追っ手が来ないうちに」

 イサムは女性と詩織の背中を同時に押して、なかば無理矢理に女子トイレに詰め込んだ。
「ふたりとも、同じ個室へ入るんだ」
「どうして、そんなことを」
「理由は――」
 そうしてイサムは、手短に詩織へ策を説明した。

 ※

 やがて、女性を追っていたらしい集団がどやどやと公園へ押しかけてきた。思ったよりも大人数だ。ざっと十人ほどだろうか。みんな、黒いスーツを着てサングラスをかけている。彼らは公園の中を隈なく探し始めた。イサムはそれを、公衆トイレ近くのベンチに腰掛けて、携帯をいじるふりをして見張っていた。
 やがて男たちは、遊具のどこにも女性の姿がないと見ると、最後に公衆トイレの中に入っていった。男性用の方へ五人、女性用の方へ五人、ふた手に分かれて入っていく。それからすぐに、ばたん、ばたんという荒っぽい音が聞こえてきた。個室の扉を開けて、中を覗いているのだろう。
 最後に、こつこつ、という乾いた音がした。扉を敲く音だ。
「入ってんのか」
 男のひとりの声がそう言った。女性用トイレからその声は聞こえてきた。
「何なのですか。今入っているので、お掃除ならあとにしてほしいのです」
 詩織の声がそう答えた。
「いや、掃除じゃねえ」
「掃除じゃないなら、何なのですか」
「俺たちはな――」
「そう言えば、男性の声なのです。ここは女性用トイレなのです。掃除係でもない人が、何の用なのですか」
「だから俺たちは――」
「まさか変態さんなのですか」
「いや、だから――」
 ほどなくして、きゃあ――という詩織の絶叫が響いた。
「誰か! 助けてくだい! 女性用トイレに男性が入ってきて閉じ込められているのです!」
 声は公園中に響き渡った。
「違うって言ってるだろ!」
 男の声がうろたえている。そろそろ出番かな――そうイサムは思った。ベンチから立ち上がり、公衆トイレへ近づいていく。
 そして、
「何をしているんだ!」
 と大声で怒鳴った。
「しかも、女性用トイレの前で! 中から叫び声が聞こえてきたが、何か不埒なことをしているんじゃないだろうな!」
「そんなわけあるかッ」
「外に誰かいるのですか? 助けてください! ひどい目に――きゃあ!」
 詩織の悲痛な声が再度響く。ここまで来ると、さすがに気づく人も現れはじめた。犬の散歩をしている婦人や、ジョギングをしている男性などが、ゆっくりと公衆トイレに近づいてくる。
 詩織と女性は、同じ個室に入ってもらっている。詩織が悲鳴をあげていてくれれば、男たちが踏み込みにくくなる上に、その叫び声で、周りの人間の注目も集めることができる。
「お、俺たちは警察だ」
「嘘をつけ!」
 集まってきたうちのひとりが声をあげた。
「仮に警察だって、トイレに無理やり入り込むような真似をしていいわけがないだろう!」
「無理やり入り込んでなどいない!」
「きゃあッ」
 詩織が叫んだ。
「それなら、なんで叫び声が聞こえるんだ」
「し、知らん!」
「さあ、きみたちが何者かは知らないが、さっさと逃げないとどんどん人が集まってくるぞ」
 とイサムは口許に余裕の笑みを浮かべながらそう言った。
「く、くそ!」
 いったん去るぞ――と男はいい、それに従ってほかの男たちも公園から逃げていった。そして騒ぎが収まると、群衆も散っていった。
 人けがなくなったのを見計らってから、イサムは女性用トイレの中に向かって声をかけた。
「詩織ちゃん、もう大丈夫だよ」
 やがて、詩織が金髪の女性を伴ってトイレから出てくる。イサムは詩織にほほ笑みかけて言った。
「さすが詩織ちゃん。素晴らしい演技力だねえ」
「そんなことはないのです」
 言葉では謙遜しているものの、表情はまんざらでもない様子だ。イサムは次に、女性に向かって声をかけた。
「あなたは何者なのですか」
「何者――というのは」
 女性は不安げに瞳を潤ませながらそう問い返した。
「だって、さっきの男たちは警察を名乗っていましたよ」
「そんなの、嘘に決まっています。あなたがご存知か知りませんけど、今、この町では窃盗事件が相次いでいるのです。私はこの街の自治会長である成瀬右近という人物の妻なのです」
「右近さんのッ?」
 声をあげたのは詩織だった。
「ええ、そうです。彼らはきっと、うちの旦那が、探偵に依頼したことを知ったのです。きっと、だから襲撃を……」
「ウコンサンって誰だい」
「この、すっとこどっこい!」
 詩織はイサムを罵った。
「今回の依頼主の方のお名前なのです。歩きながら説明したはずなのです!」
「いやあ、ごめんごめん。つい、詩織ちゃんのかわいい顔に見とれてしまって、説明どころじゃなかったよ」
 どうしようもない馬鹿なのですッ――と詩織は言って、腕を組んだ。
「あの――」
 ふたりのやり取りに、女性が割って入った。
「今回の依頼者の方――とさっき仰りましたよね」
「え、ええ」
 詩織は円い瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「ということは、あなたがたは、武智探偵事務所の方々なのですか」
「そうですよ」
 とイサムは答えた。
「そうですか」
 それは、このたびはお世話になります――と女性は言い、そして、それでは――と言って去っていった。
「なんだ、ずいぶん淡白だな」
 イサムは、走り去っていく女性――右近の妻らしい――の後ろ姿を見送る。
「そんなことより、イサムくん!」
 詩織の声で、イサムは我にかえった。
「早く晴彦くんたちを助けに行くのです!」
 言い終わらにうちに、詩織は駆け始めた。イサムもその後を追う。が、ふたりはまたしても足を止めることになった。
 見覚えのある人物が、視界に入ったからだ。
 その人物は、民家の塀の陰に隠れていた。

 大きな図体に、弁当箱のような四角い顔。短く刈り上げた髪に、太い眉。そして、その眉間に刻まれた深い皺。
「鬼塚警視正!」
 詩織がその男の名を呼んだ。
 見れば、鬼塚の背後には、サングラスに黒いスーツを着た男たちが控えていた。さっきの女性を追っていた男たちだ。
 それを見たせいか、詩織はよたよたと後退して、イサムの背後に隠れた。イサムは詩織を庇うように、鬼塚と正面から向き合う。
 けッ――と鬼塚は唾を吐いた。
「せっかく追い詰めたのに邪魔しやがって」
 依頼者の妻であるという女性を襲った集団。その集団を従える鬼塚。
 イサムは目を薄めて鬼塚を睨んだ。警視正と名乗っているが、この男、まさか――。
「まあ、良い。俺には仲間がいるからな」
 と鬼塚は言った。
「それにしても、お前たちには見張りをつけておいたんだがな。どうしやがったんだ、咲間の奴――」
 と鬼塚は悪態をつく。
「咲間警視が私たちの見張りについたのは、まさか――」
「もういいよ、詩織ちゃん」
 イサムは詩織の言葉を止めた。
「今は一刻も早く晴彦を助けたいんだろう。こんな下司を相手にしているなんて時間がもったいないじゃあないか。さあ、行こう」
 いつもならイサムがふざけていて、それを引っ張るように詩織がそう言うところだが、今回ばかりは立場が逆になってしまったようだ。詩織もそれに戸惑ったのか、
「え、ええ」
 と一瞬どぎまぎしてから、
「そ、そうなのです。早く行くのです!」
 と気を取り直したように言って、また走りはじめた。イサムもそれを追って走った。

 ※

 白犬運輸。
 倉庫の壁には、確かにそう書かれていた。もし詩織の推理が正しければ、この倉庫の中、もしくはこの倉庫が見える位置に晴彦と梨奈が捕らわれているはずだ。
「しかし、どうしたもんかねえ」
 高台の神社から倉庫を見下ろしながら、イサムは呟いた。晴彦たちの居場所の見当をつけたはいいが、問題は体力だ。ここまで来るのにさんざん走ったものだから、息が切れてしまっている。おまけに、もう夕方だ。これからすぐに日は落ちるだろう。そうなったら視界まで効かなくなってしまう。
「あ!」
 隣りで小型の望遠鏡を覗いていた詩織が、声をあげた。
「どうしたんだい、詩織ちゃん」
「晴彦くんたちが見えるのです!」
「なんだって」
 イサムは詩織から、望遠鏡を受け取ると、レンズをのぞき込んだ。
 白犬運輸の倉庫には窓があって、そこからオレンジ色の光が漏れている。夕方になって暗くなってきたので、明かりをつけたのだろう。
 その明かりの漏れる窓に、イサムは焦点をあてた。
 倉庫の中には、ダンボールがいくつも乱雑に積まれている。そのダンボール箱の合間に――。
 晴彦の姿が見えた。赤い髪に、ピンク色のポロシャツ。そして白いチノショートパンツ。間違いなく晴彦だった。そして、その隣りには、梨奈の姿もあった。茶色の長い髪に、緑色のパーカー。そして白のホットパンツ。
 ふたりは縄で結ばれた上にガムテープで口を塞がれ、床に直接座らされている。背後の壁に背中をあずけているところを見ると、そうとう憔悴しているのかもしれない。しかも晴彦と詩織を囲むかのように、いかにも屈強そうな男が、少なく見積もっても十人はいる。敵と見て間違いないだろう。
 眺めていると、動きがあった。
 晴彦と梨奈の前にひとりの男が立ちふさがったのだ。
 男が立ちふさがったおかげで、晴彦と梨奈の姿は一部隠されて見えなくなった。
 立ちふさがった男は、イサムから見たら後ろ姿しか見えなかったが、それが誰であるかは明らかだった。なぜなら、服装が特徴的だったからだ。
 タキシードにシルクハット。おそらく前から見たら、片眼鏡を右目にはめていることだろう。
 ――成瀬右近だ。
 イサムはそう直感した。イサムは直接見たことはないが、その容姿については詩織から聞いている。しかし、だとしたら妙なことになる。窃盗犯捕縛の依頼をしたその本人が、晴彦たちを捕らえていることになるからだ。さらに言うと、そんな右近の妻を追っていた鬼塚の目的もなんだか分からなくなる。
 ――どういうことだ。
 首を傾げるが、迷っている場合ではない。とにかく晴彦たちを助けなくてはいけない。しかし、問題は、晴彦たちを囲むあの男たちだ。あの男たちを何とかしなければ、とても晴彦たちを救い出すことなどできないだろう。
「そうだ」
 イサムは詩織をみた。そして、
「やっぱりきみは運命の恋人(デスティニー・ラバー)だよ」
 と言った。
「は?」
 と言って、詩織は首を傾げた。

 ※

 すでに日は沈んでいた。昼間から水も飲まずにこの倉庫の中にいるので、いくらか眩暈がする。腕と手首をきつく締め付ける縄が皮膚に喰い込んで、痛みを感じる。ガムテープで口を塞がれているから、呼吸もうまくできない。
 それでも気を失うわけにはいかない。晴彦はそう思っていた。気絶すれば、意識を失っている間に移動させられた場合、自分の居場所がどこなのか分からなくなってしまう。もう仲間との通信手段は残されていないが、それでも何かの拍子に仲間と連絡が取れた場合のことを考えると、自分の居場所をきちんと認識しておくことは欠かせないことだと思う。
 そして、それより何より、自分が気絶してしまえば、隣りで懸命に縄の痛みに耐えているだろう梨奈が、一気に気落ちしてしまうだろう。それを何よりも避けたかった。
 捕まってから、もう何時間が過ぎたかしれない。ガムテープで口を塞がれてから、もうまったく喋っていない。晴彦自身と梨奈はもちろんのこと、ふたりを見張る男たちも口を聞かない。無言の時が長く続いていた。
 しかし、その無言が破られる時が来た。
 成瀬右近が戻ってきたのだ。
 右近は、相変わらずタキシードとシルクハット姿で、目には片眼鏡をはめていた。
 右近はふたりの前に立ちはだかると、
「やっと手配がついたよ」
 と言った。手配というのが何のことなのか、晴彦にはわからない。梨奈も理解していないようだ。それを説明するかのように、右近はさらに言った。

「昼間にも言ったが、われわれの目的は優秀な頭脳の入手だ。そのためには、当然手術が必要になってくる。しかし非合法な手術を請け負ってくれる医師というのは少なくてね、その手配をしていたところなんだよ。そして、ようやく――」
 その手配がついたのさ――と右近は言った。
「つまり、もうきみたちの命はないということだ。本当であれば、きみたちの仲間も一緒に連れていきたいところだが、いつまでもここにいるのはやや危険になってきた。残念だが今回はきみたちだけで我慢しておくとしよう」
 そして右近は、手下に向かって、おい――と言った。
 具体的な指示ではないが、それで右近の意思は手下に伝わったらしい。手下たちは相変わらず無言のままに動きだした。
 十人の手下たちが、五人ずつに分かれて、ふたりの体に手をかける。脇の下、腕、太もも。梨奈はそれに嫌悪感を感じたのか、ガムテープで塞がれた口からうめき声を出した。晴彦もさすがに危機を感じ、体を動かして抵抗する。しかし、縛られているからろくに抗うことができない。やがて手も足もしっかりと握られて持ちあげられそうになった時だった。

「助けて! お願い! 追われているの!」

 声が聞こえた。切羽詰ったかのような、女性の金切り声だ。その声に、晴彦は聞き覚えがなかった。梨奈も誰の声なのかわかっていないらしい。しかし、その声に反応した人間がひとりだけいた。
 成瀬右近だ。
「あの声は妻だ」
 今まで余裕の表情しか見せたことのなかった右近が、はじめて狼狽の色を見せた。
「まさ警察に見つかったのか。くそ――」
 来い――と右近は手下に言って、自ら率先して倉庫を出ていった。手下が何人かそれに続く。
 しかし、全員が出ていったわけではなかった。さすがにここを留守にしてしまうわけにはいかなかったのだろう。
 これでもまだ助かったとは言えない。
 ――なんとかならないものか。
 晴彦が、考え始めた時だった。
 甲高い音が背後から響いた。振り向こうとすると、頬にちくりと痛みを感じた。音とともに降り注いだ何かが、頬を切ったのだ。降り注いだそれは、電灯のオレンジ色の光を反射しながら、きらきらと輝いて床に散らばった。
 背後にある窓のガラスが割れたのだ。
 そして、ガラスを割ったであろう人物が、それと同時に倉庫の中へ飛び込んできた。自分の体でガラスに体当たりをしてきたのだろう。その人物は倉庫の中へ飛び込んでくると同時に、晴彦たちを飛び越えて空中でくるりと優雅に一回転し、そして――。
 ぴたりと足元から着地した。
 茶色のマッシュヘアに、七分袖の青いテーラード。そして白いショートパンツ。
 イサム・ルワン・ラーティマラート――。
 後ろ姿ではあるが、飛び込んできた人物が彼であることはすぐにわかった。
 イサム――と晴彦は叫ぼうと思ったが叫ぼうとガムテープで口を塞がれているので、呻き声しか出せなかった。
「今回は着地に成功したようだ」
 イサムは立ち上がって振り返りながら、目にかかる茶色の前髪をさっと横に払った。
「やあ晴彦。ずいぶん妙な恰好をしているねえ。そんな姿では女の子にもてないよ」
 ――冗談を言ってないで助けてくれ。
 そう言いたいが口をふさがれているので言えない。
「まったく、事務所の所長代理がこれでは、この先が思いやられるねえ」
 そう言いながらも、イサムは晴彦の口に貼り付けられていたガムテープを容赦なく一気に剥がした。
「痛えッ」
 そして透かさず、縄をほどく。続いて梨奈のガムテープを、晴彦の時とは違って優しく剥がし、また縄も解いた。
「ありがとう」
 と梨奈は言った。
 何時間ぶりかに取り戻した自由に、凝り固まった全身を晴彦はほぐした。しかし――。
 倉庫の中には体格のいい男が五人も残っている。背後にある窓は位置が高すぎて、届かない。逃げるなら、やはり前方にある出入口を使うしかないが――。
「誰だ、てめえはッ」
 と、突然の闖入者に呆気に取られていた男たちのひとりが、ようやく声をあげた。
 フフン――とイサムは髪を横になでつける。
「僕が誰かって」
 フィオ王国の第四王子さ――とイサムは言った。たぶん誰も信じないだろう。
 案の定、それを信用した人間はいなかった。
「馬鹿にしやがって」
 五人の男がいっせいに襲いかかってきた。手には棒切れやナイフを持っている。
 ――助からない。
 晴彦は目をつむり、せめて梨奈だけでも護ろうと、梨奈の体を抱きしめて背中を男たちに向けた。そして背中に激痛が――走ることはなかった。何回かの打撃音が聞こえたが、晴彦自身は痛みも感じなかったし、怪我も負わなかった。
 おそるおそる目を開ける。
 床には五人の男たちがばらばらの恰好で、仰向けになったりうつ伏せになったりして倒れていた。
「これが特殊部隊の力さ」
 とイサムは言った。
「特殊部隊?」
 梨奈がこそっと呟く。
 そうだよ――とイサムは言った。
「事務所から出発する前にも話しかけたのだけど、あの時は梨奈ちゃんに止められて話せなかったんだ。だからあらためて説明させてもらうとね、フィオ王国の特殊部隊が、なぜ特殊なのかというとね、それは――」
 王家の子息が部隊員だからなのさ――とイサムは言った。
「どういう意味だ」
 晴彦が問いかける。
「そのまんまの意味だよ。王家の子息、つまり僕が、特殊部隊に、いち隊員として所属しているんだよ」

「そういうことか」
 晴彦は、床に伸びている五人を見渡しながら思い出していた。事務所の庭で、イサムが言った言葉を。
 それでも特殊部隊を動かしてはいけないとなると、僕は仕事が出来ないじゃあないか。どうしてくれるんだい――。
 つまり、彼自身が特殊部隊の一員だから、特殊部隊を動かしてはいけないとなると自分も動けないということだったのだろう。
 しかし、今は動かした――というよりは、動いてくれたおかげで自由を取り戻すことができた。
「今のうちに逃げようじゃないか」
 とイサムは言ったが、そうはいかなかった。倒れたはずの五人が、また起きあがって、襲いかかってきたのだ。
「逃がすかよ」
「きみらも大概しつこいねえ。そんなにやられたいのかい。だったらかかってくるといい。フィオ王国の実力をお目にかけようじゃないか」
「黙れ小童ッ」
 怒声とともに、ひとりの男が棒切れを振りあげて殴りかかってきた。しかしイサムは動じない。男に向かって大股で一歩間合いを詰めると、棒切れを持った相手の腕を右腕で払い、同時に左手の拳を脇腹に叩き込む。男は口から粘液を吐き出して倒れ込んだ。しかしそれだけでは終わらなかった。
 間を置かずに、左から刃物を持った男が突っ込んでくる。しかしそれもイサムの相手ではなかった。イサムは右足を軸にして体を回転させ、相手の持つ刃物を左足で蹴り飛ばした。刃物が宙を舞う。手を蹴られた男は、もう片方の手で刃物を持っていた方の手を抑え、痛みをこらえる。しかし、一秒もそれは続かなかった。
 左足で回転蹴りを放ったイサムは、そのまま左足を地面に着くと、その動きの流れに任せてさらに体を回転させ、今度は右足の踵で男の顳かみを打ち抜いた。男は吹き飛ばされて地面に転げる。
 さらに今度は、右から別の男が襲ってきた。鉄の棒を思いっきり横に薙ぐ。風を切る音と共に、イサムの頭を直撃しそうになるが、イサムはそれを、身を屈めることでかわした。そしてイサムは、その低い体勢のまま水平に移動して男に近づき、肘鉄を腹部に叩き込んだ。男は体を〝く〟の字に曲げて床に崩れ落ちた。
 さらに四人目、五人目と襲ってくるが、イサムは的確に相手の攻撃をかわし、迅速に打撃を与えては相手を倒した。
 その意外なまでの強さに、晴彦も詩織も、ただ呆気に取られて見守ることしかできなかった。たちまちのうちにイサムは、五人の男をふたたび倒してしまった。ところが――。
 五人目を倒したところで、ふたたび一人目の男が立ちあがった。
「まだやるのかい」
 イサムはきざな声でそう言ったが、さすがに息が切れていた。
 さらに、二人目、三人目の男が起きあがる。逃げられるのは、まだ先のようだ。
 晴彦は梨奈を背後に庇い、近くに落ちていた鉄棒を持って、イサムを援護する準備をした。

 ※

 とにかく走るしかない。
 日が落ちてすでに暗くなった白犬町の中を、詩織はひたすらに駆けていた。黒猫町から白犬町へ移動するだけでもそこそこ足が張っていたというのに、さらに走らなければならないというのは少しばかりこたえたが、それでも今は走らないわけにはいかなかった。
 詩織は先ほど、白犬運輸の倉庫の前で、得意の声帯模写を使った。
 模写をしたのは、右近の妻の声だ。あらん限りの声で悲鳴をあげ、助けを求めたのだ。
 陽動のためだ。
 右近の妻が危機となれば、右近も黙ってはいられないだろう。必ず倉庫から出てくるはずだ。それも手下を伴って。
 案の定、右近は倉庫から出てきた。詩織はすぐに姿を隠そうと思ったのだが、見つかってしまい、こうして追われる羽目となったのだ。
 詩織を追ってきているのは右近と、手下の五人だった。つまり倉庫の中にいた半分の手下たちが出てきているということだ。これで倉庫の中は手薄になっているはずだから、イサムも晴彦たちを助けに入りやすいだろう。それはそれで良いのだけど――。
 問題は詩織自身だった。追手は右近を含めて六人。しかもかなり体格のいい男ばかりだ。もし追いつかれたら間違いなく抵抗はできないだろう。捕まったら嬲られるか、下手をしたら殺されるかもしれない。
 そう思うと恐怖感しか湧いてこなかった。竦む足を必死に動かし、詩織は走る。
 しかし限界が近かった。息は荒くなっているし、足は脛も腿も張っていてこわばっている。今にもその場に倒れ込んでしまいそうだ。それでも走るのをやめるわけにはいかない。でも――。
 ――もう限界だ。
 このまま捕まってなぶり殺しにされてしまうんだ――詩織が諦めかけた時だった。
 前方に人影が見えた。
 背の高い男性だ。ふわっとした茶髪。そして幼い顔には愛想のいい笑みが浮いている。
 ――あ、あの人は。
「咲間警視!」
 詩織はその人物の名前を呼んだ。詩織は最後の力を振り絞って、咲間のところまで駆け抜けた。

「咲間警視! 助けてほしいのです!」
 詩織は、咲間の体に跳びつく。それを咲間は両腕で抱きとめた。
「やあ詩織ちゃん。どうしたんだい、そんなに息せき切って」
「お、追われているのです。あいつらに」
 詩織はそう言って、背後の迫っている右近たちを人差し指で指し示した。
 そうしている間にも、右近たちはとうとう詩織に追いついてしまった。しかしもう安心だ。咲間警視がいるのだから。
 詩織は咲間の背後に隠れる。
 追ってきた右近たちは、咲間の前まで来ると立ち止まり、咲間に向けて言った。
「そのお嬢さんをこちらへ渡してもらおうか」
 それに対して咲間はこう応じた。

「もちろんですよ」

「えッ」
 詩織は耳を疑ったが、どうやら聞き間違い、勘違いのたぐいではないようだった。咲間は、自分の背後に隠れている詩織の背中に手を当てると、そっと前へ押し出した。詩織は抵抗しようと思ったが、どういう力の加減が働いたのか、いくらも抵抗できずに、右近たちの前に晒されてしまった。
 ふふふ――と右近が不気味な笑いを漏らす。
「ちょっと咲間警視!」
 詩織は振り返って、咲間のワイシャツを掴んで縋ったが、咲間はひと言、
「大丈夫だよ、詩織ちゃん――」
 すぐに楽になるから――と言った。そして今まで見たことのない凶悪な笑みを浮かべた。まさか――。
 その瞬間、詩織は鬼塚警視正の言葉を思い出した。
 まあ、良い。俺には仲間がいるからな――。
 それにしても、お前たちには見張りをつけておいたんだがな。どうしやがったんだ、咲間の奴――。
 ――仲間って、まさか。
「咲間警視!」
 それまでだった。
 詩織は肩を強く引っ張られた。
「きゃあッ」
 叫びながら、詩織は後ろに転びそうになるのを、なんとかこらえた。しかし、それで落ち着くことはなかった。すぐさま首を抑えられたのだ。背後から、男たちのひとりが詩織の首に腕を巻き付けてきたらしい。
「く」
 喉を潰されるような感覚を覚えて、詩織は思わず呻いた。首を抑える片腕を、詩織は両手で掴んで引き剥がそうとしたが、まるでびくともしなかった。最後に詩織は、咲間の顔をもう一度、縋る思いで見つめた。咲間はいつものように、愛想のいい笑みをその童顔に浮かべていた。
 すぐに楽になるから――。
 さっきの咲間の言葉が頭をよぎる。咲間の屈託のない笑みが、今はとてつもなく恐ろしいものに見えた。

 ※

 イサムと晴彦は追い詰められていた。
 イサムが、殴ろうが蹴ろうが、男たちは一度は倒れるものの、そのたびにまた起きあがってくるのだ。理由は簡単だ。イサムが丸腰で戦っているからだ。いくら特殊部隊の戦い方といっても、徒手空拳では与えられる打撃力には限度がある。晴彦は鉄棒で応戦したが、晴彦の攻撃などはあっさりとかわされてしまう。だから晴彦には、イサムの隙を補強するくらいの働きしかできなかった。イサムが鉄棒を持てばあっさりとやっつけられると思ったのだが、イサムは、
「特殊部隊の人間が、素人を相手に武器を持ちたくはないな」
 という謎のプライドを発揮して、あくまで丸腰での戦いに固執した。
 梨奈はというと、なぜだかバケツを持っている。これを振りまわして応戦しているようなのだが、身を護ることはできても相手に打撃を与えることはまったくできていないようだ。もっとも晴彦としては、梨奈は自分の身を護ってくれていればそれでいいと思っていたのだが。
 倒しても倒しても起きあがってくる相手に、晴彦は疲労を感じ始めていた。もっとも、いちばん疲労を感じているのはイサムだろうとは思う。そのイサムも、さすがに参ってきているらしい。
 疲労した三人に、五人の男たちはじりじりと間合いを詰めてくる。イサムは両腕を胸の前で構え、晴彦は鉄棒を強く握り直す。そして再度の迎撃準備を整えた。その時だった。

「ふっふっふっふ」

 笑い声が聞こえた。倉庫の入口からだった。そちらへ視線を向ける。
 開けっ放しだった扉から、わらわらと人が入ってきた。さっき声につられて出ていった右近と、その手下たちだった。しかし、その中に、思いもしなかった人物が混ざっていた。
 ツインテールにまとめた青い髪。ピンク色のチョーカー。ピンクと白の縞模様のTシャツ。白地に水色の縦縞の入ったテニススカート。白くてほっそりとした足。大きな丸眼鏡の奥に輝く丸い瞳。頭に乗せたピンク色の野球帽。
「詩織ちゃん!」
 イサムが叫んだ。
 詩織は両腕を背後に捻りあげられ、自由の効かない体勢で押えつけられている。
 それを助けようとしたのか、イサムは素早く駆け寄ろうとした。しかし、
「動くな!」
 という右近の一喝で、イサムはその動きを止めた。右近は詩織の喉元に刃物を突きつけている。いくら腕の効く特殊部隊の隊員といえど、またフィオ王国の第四王子といえど、こうなっては手も出せまい。
「詩織ちゃん! 護身用の光線銃はどうしたんだい」
 イサムが咄嗟に尋ねる。
「マモルくんは、ミミズを一匹殺すのに、六時間は光を照射しないといけないのです。つまり、まだ実用には向いていないのです」
 詩織は情けなさそうに俯く。
 仲間はすべて捕まってしまった。しかも人質を取られている。こうなってはもう、どうしようもない。
 ――これまでか。
 晴彦は奥歯を噛み締めた。
 自分が所長代理として、武智の許可を得ずに依頼を引き受けてしまいさえしなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 そう思うと、後悔と、仲間に対する申し訳なさで気持ちがいっぱいになった。そんな晴彦に、右近がさらに追い打ちをかけた。
「晴彦くん――といったかな。きみに選択肢を与えよう」

断章

「晴彦くん――といったかな。きみに選択肢を与えよう」
「選択肢」
「そうだ。まずひとつ目の選択肢は、仲間の命を助けるかわりに、きみ自身が犠牲になることだ。そしてふたつ目の選択肢は、仲間が犠牲になるかわりに、きみ自身が助かるという選択肢だ」
 く――と晴彦は呻いた。
「自分が犠牲になるか、もしくは仲間を犠牲にするか、さあ――」
 どちらを選ぶ――と晴彦は、究極の選択を迫られた。
 ――俺は。