忍者屋敷からの脱出 第1章

 青葉総合大学のグローバルビジネス学科に籍を置く学生、イサム・ルワン・ラティラマートは現在英語の講義の真っ最中であった。彼の口から生まれるあまりに流暢すぎる日本語の所為で時折忘れられることはあるが、彼はフィオ王国の第4王子。希望すれば自国で望んだレベルの教育を受けられるほどの権力を持っている人物だ。にもかかわらず、自ら留学を志願し生まれ故郷を離れ、日本という島国でこうして一般庶民同様に大講堂で授業を受けている。これは彼の学習意欲の高さの表れだ。少しでもわからないことがあれば積極的に教員に質問し、誰も手が挙がらない場面では流れを止めないようにと声をあげる。それはイサムにとっては至極当然なことであるが、他の学生や教員からすると彼の行動に何度も救われる部分があった。勿論彼は日本の知識においては日本人より劣っているため、間違った発言をすることもあるが、そういった部分があるからこそ完璧すぎない彼に好感を持つ者も多くいる。
 授業態度は真面目だがお堅すぎるというわけではなく、むしろフレンドリーで接しやすい。これが周りのイサムに対する評価であった。


 しかし、そんな真面目と言われる彼でもどうしても眠気に抗えない講義が1つだけ存在する。それが今現在受けている講義だ。理由はいくつかあるけれど、強いて1つあげるならば内容が些か簡単すぎるのだ。先ほども言ったが、彼は一国の王子である。世界中で使用されている言語については当然王宮で学習済みだ。それも日本の学生が授業で習ったというレベルではなく、ネイティブスピーカーと難なく話せるレベルまでは到達している。そこまで来てしまうと、大学の講義の一環で習う英語に退屈さを感じてしまうのは無理も無い話だ。講義の内容をまとめられたプリントを配布されているので、教員が何度も口にするフレーズを書き込んだりマーカーで色をつけたりはしているが、その作業は学習のためというよりは眠気覚ましに近い部分があり、シャープペンシルで書かれた文字はいつもよりも少し歪であった。


 押し寄せてくる眠気に意識を飲み込まれかけたとき、ふいに自分のポケットにしまっていたスマホから通知を知らせる振動が右の太ももにダイレクトに伝わった。予想もしなかった刺激にイサムの脳は一気に覚醒し、覚醒ついでに講堂の机に膝を打ち付けた。半ズボンのポケットの中にしまっていたおかげで音は布に吸収され、講堂中の視線を引き付けるような事態にならなかったことだけを心の中で何らかの神に感謝しながらスマホの通知内容をチェックする。真面目だと言われる学生であっても目立たないところでは案外馬鹿みたいな落書きをしたりスマホを弄ったりしているものなのだ。


 通知内容は同じ大学に通う相馬晴彦からメッセージが届いたという至極日常的な内容だった。すぐに確認しなければいけない必要はこれっぽっちもないのだが、退屈すぎる講義からの休憩と銘打ってイサムはスマホをタップする。パスワード打ち込んで晴彦からのメッセージを確認すると、内容は以下の通りだった。


『谷敷先生が、また忍者関連の怪しい古文書を手に入れたらしい。イサム確か日本の忍者に興味あるって言ってたよな?今度その古文書を見せてもらいに行くんだけど、一緒に来るか?』


 晴彦からの誘いにイサムは目を輝かせた。だってニンジャだ。他国から来た者がもれなく心奪われるというジャパニーズニンジャだ。今、日本にニンジャはいるのかという問いに今はいないよという笑い交じりの答えが返ってくることも、それが事実であることもイサムは十分理解していた。だから、興味はあるが一生自分には縁がないもの。イサムにとって忍者とはそういう認識だったのだ。それがまさか、嘗て忍者がいたという痕跡をこの目で見れる機会が訪れるとは。なんという幸運だろうか。ありがとう晴彦。


 イサムは素早く指を動かし、ぜひ自分も同行させてほしいという旨を晴彦に送る。すると、数秒もたたぬうちに既読のマークがつきOKという看板を抱えた動物のスタンプと、隣で谷敷先生も喜んでいるという言葉が戻ってきた。谷敷先生が隣にいるということは、わざわざイサムと見に行く日付や時間を合わせなくとも、今すぐ古文書を見ることが出来ると言うことだ。それをせずに自分にわざわざ声をかけてくれた。別にイサムを誘う義務なんてどこにもなかったはずなのに、だ。晴彦に心からの感謝の気持ちを込めてありがとうと送るとどういたしましてーと、さして深く考えていなそうな返信が手元に届いた。なんとも彼らしい反応だ。


 その後は集合場所だとか時間だとかの相談に内容が移り、イサムの文字をタップするスピードはますます上がった。そして、二人の予定のすりあわせが終わり大きく息をついたところで講義室に残っている学生がもうわずかであることと、講師がどこか不思議そうな顔でイサムを見ていることに気がついた。イサムは意味も無く講師に作り笑いを送るとそそくさと講義室を後にする。一応真面目というイメージで通しているのだ。机の下でこっそりスマホを弄っていて講義が終わったことに気がつかなかっただなんてばれてしまっては困る。目をつけられたりしないだろうな、と嫌な想像が脳内に浮かんだが、イサムの脳はその想像図を勝手に端へ追いやると忍者の古文書についての話に強制的に切り替えた。
 たった数日がこんなにも長く感じるなんて。
 晴彦とのメッセージ履歴を遡りながら、数日後にやってくるそれはそれは素晴らしいであろう未来にイサムは心を躍らせたのだった。