魔宮夫人の恐怖! 4章 勇気より怒りを

 ここはさっき通った気がする。
 確たる根拠はないけれども、イサムはそう感じた。
 密室で柱に縛り付けれられていたイサムは、ちょっとした奸計を使って黒づくめの男たちを叩きのめした後、部屋を飛び出したのだが、それっきり先に進めなくなってしまったのだった。
 いや、もしかしたら進んでいるのかしれないが、実際に自分がどこにいるのが分からない、というのが正確なところだ。
 廊下が、複雑なのである。
 部屋を出てから、かれこれ一時間は廊下を走り回っているが、いくら走っても、目の前に見えるのは丁字路か十字路か行き止まりだけである。しかも閉じ込められていた部屋と同じく、廊下もすべてが石造りだ。壁も床も天井も、冷たくて硬い灰色一色である。
 焦りを感じていたイサムは、何の計算もなく廊下を走り回っていたのだが、一向に出口へ行き着く気配がない。もしかしたら同じ場所を通っているかもしれないが、造りが造りなのでそれも分からない。なんとなく通ったかもしれない、と感じる程度だ。
 それにしても、一時間も走りまわって抜けられないのだから、よほど大きな建物なのだろうとは思う。そして、この廊下が迷路を意識して造られているのも明らかだ。
 イサムは、あの女の顔を思い出していた。
 イサムをコレクションにすると言っていた女だ。豊満な身体を黒いドレスで包み、派手な羽団扇を持っていたのを覚えている。
 艶かしい雰囲気の女だったが、好意は持てない。むしろ嫌悪感さえ覚える。
 イサムは深呼吸をして乱れた息を整えると、下唇を噛み締めて、再び出口の見えない通路を走り始めた。
 しかし、イサムはその足をすぐに止めた。

 ※

 口許が思わず緩む。
 画面を見て愉悦を感じていた。
 私室である。館全体に取り付けてある監視カメラの映像が、この部屋にいればすべて見物することができる。
 黒服の部下の動向も、密室に監禁した美少年たちの様子も、すべてだ。
 部屋を囲む四枚の壁は、ぎっしりと画面で埋め尽くされている。部屋の真ん中にあるソファに体を横たえ、肘をついて上半身を起こして首をめぐらせれば、どの画面の様子も、つまりは館の中のすべての様子を好きに眺めることができる。
 まるで一国の王について独裁制を築いているような満足感だ。しかも臣下に当たる部下も、国民にあたる誘拐した少年たちも、いずれも自分の好みの男ばかりなのだ。これほど快感を覚えることはほかにはあるまい。だから――。
 つい笑みがこぼれるのだ。
 その中で、もっとも目を引くのは廊下の様子だった。迷路のように複雑に入り組んだ廊下を、先日誘拐したばかりのイサムという名の青年が走りまわっているのだ。時には行き止まりに当たり、時には同じ場所を通ったりしながら。
 ほっそりとしつつも逞しい体つきの高貴な血筋の青年は、その茶色いマッシュヘアを汗で湿らせ、時折額を袖で拭いながらも、必死の様子で廊下を行き来している。その様子が実に――。
 耽美であった。
 イサムは、黒服の部下を軒並みなぎ倒して部屋を脱出したようだった。それをも見物していて心地がよかった。
 この光景をワインを飲みながら愉しもうと思っていたが、ワインを持ってくるように命じた部下は、イサムの鉄拳を受けて延びてしまっている。ワインはほかの部下に命じて持ってこさせようとも思ったが、それはよした。
 イサムは油断のならない戦闘力を持っている。もしもの時のために、イサムの再捕縛に投入できる戦力を割きたくなかったからだ。
 少しの間だが仕方がない。ワインは自分で取りに行こうとみずから部屋を出た。

 ※

 建物から脱出するために迷路のような廊下を走りまわっていたイサムは、いったん足を止めて休んだものの、ふたたびその足に力を込めて駆け出した。
 が、駆け出した矢先に、その足をまた止めることになったのだった。
 人がいたからだ。
 例の黒服姿の男ではない。イサムが見たのは、女だった。
 黒いシャツと黒いスカートの上に、白いエプロンをかけた女だった。その恰好から察するに、おそらくこの建物に仕えている女給か何かだろう。そうに違いないだろうことに、女は食事を載せた台車を押していた。
 一瞬ぎょっとしたものの、女はイサムの姿には気づかなかったようだ。
 イサムの目の前には十字路がある。女はその十字路を、左から来たかと思うと、イサムの方など見向きもせずにそのまま右側へ消えていってしまったのだった。
 ――あの料理は誰のものだろう。
 疑問に思ったが、その疑問にはすぐに答えが出た。
 あなたは私のコレクションになるのよ――。
 あの黒いドレスの妖艶な美女はそう言っていた。
 コレクションは単品では成立しない。複数そろえて初めてコレクションと言えるのだ。つまり、イサムと同様にこの建物の中に囚われている人間がいるのかもしれない。あの女給が運んでいた食事は、その人間のものだろう。そうでなければ、あのドレスの妖女のものか。
 どちらにしても、あの女給を追えば手がかりのある場所へたどり着けるかもしれない。
 イサムは少しの期待を込めて、足音を忍ばせた。曲がり角近くの壁に張り付き、片目を覗かせて女給の背中を伺う。幸い女給はイサムの存在にはまだ気づいていないらしい。振り返ることもなく、黙々と台車を押している。
 女給が廊下を曲がると、イサムもその曲がり角まで走って、再び壁にへばりついて片目で女給の背中を眺めた。
 そうして何遍か曲がり角を曲がった時だった。
 イサムは今まで見たことのない通路に出た。
 とはいえ、見た目はさほど変わらない。床も天井も壁も、冷たくて硬い印象の石造りだ。それがどうしてこれまで通ったことのない通路だと分かったのかといえば、壁に扉がついていたからだった。
 石造りの壁の一部が、黒い線で四角く切り取られている。さらに取手までついている。明らかにそれは扉だった。
 実際に、女給はその取っ手を捻って扉を開けた。何か手がかりがあるかもしれないと思って尾けて来たが、ここまで来ればもう良いだろう。
 もう女給に用はない。

 イサムは足音を立てないようにつま先で立つと、女給の背後まで近寄った。
 ――ごめんね。
 イサムとしては、か弱い女の子を相手に実力を行使することは不本意であったが、この場合は今は仕方がないだろう。右手で手刀を作ると、女給の首の根元を軽くとんと叩いた。
 それだけだった。それだけで、女給は苦悶の声をあげることもなく、まるで糸の切れた傀儡のようにくたりとその場に倒れ込んだ。
 イサムは、女給が気を喪っているのを確認してから、女給が開けかけていた扉を自らの手でゆっくりと開いた。
 ぎい、と蝶番の軋む音がして、ゆっくりと扉は開いた。
 陽の当たらない扉の中に、廊下から電灯の光が差し込み、闇の真ん中を明るく裂いた。部屋の中には――。

 少年がいた。
 小学生ほどの幼い男の子だった。幼いとはいえ、おそらく六年生くらいにはなるだろう。とすると年齢は十二歳といったところか。黒いシャツに赤いネクタイを締め、青い上着をかけている。白いショートパンツからは、ほっそりとした幼い脚が伸びている。さらっとした黒髪と涼し気な目許が特徴的な少年だった。
 活発そうな印象を受けるが、今はまるで活発とは言えない状態だった。なぜなら、少年は縛られていたからだ。
 椅子に座らされ、両手を背もたれの後ろに回されて胴体ごと縄で締め付けられている。おまけに口にはガムテープが貼り付けられ、ろくに言葉も話せないようになっていた。
 目尻の釣り上がった目元には意思の強さが宿っているようだが、眉が八の字に歪んでいるので気弱な心持ちでいることが見て取れる。無理もない。縛られて自由を奪われたところへ、イサムが現れたのだから。
 もちろん面識はない。だからもしかしたら、少年はイサムを悪漢と勘違いしているのだろう。

 

挿絵提供は、はるもと様。


 だが、イサムはこの少年の敵ではない。縛りつけられているところを見ると、きっとこの少年も、イサムと同じく、なんらかの方法でここへ拉致されてきたのだろう。だとすれば、ここから脱出したいという望みを持っているはずだ。そういう意味では、少年はイサムの味方だ。
 イサムは少年の警戒を解くために、まずは笑ってみせた。走り疲れて笑みを見せる余裕などなかったが、無理と口の端を釣り上げて余裕の表情を作ってみせる。
「僕はきみの味方だよ。心配しなくてもいい」
 言いながら、イサムは少年の口を塞いでいるガムテープをゆっくりと剥がした。少年は痛みをこらえるかのように目を細めていたが、ガムテープをすっかり剥がしてしまうと、安心したかのようにふう、と息をついた。
「あなたは」
 自由になった口で、少年は朴訥に訊いた。
 ガムテープを剥がしたイサムは、今度は縄を解きにかかる。なかなか固く結んである縄は、指先に思いきり力を入れてもなかなか解けない。
「僕はイサムさ」
 探偵だよ――とイサムは、指先に力を込めながら答えた。
「探偵」
「そう、探偵」
 そう答えたところで、ようやく縄が解けた。少年はようやく体の自由も取り戻した。その自由を確認するかのように、少年は両腕をぐっと上に伸ばした。そして口許をほころばせて、
「ありがとうございます。僕は御子柴祥真といいます」
 そう言った。
「祥真くんか。きみはどうしてここに」
 少年――御子柴祥真――に視線の高さを合わせるために、イサムは腰をかがめて祥真の顔を正面から眺める。
「僕は――」
 誘拐されたんです――と祥真は答えた。やっぱりか、とイサムは思う。あの女は何を企んでいるのだろうと思うと、あらためて嫌悪感が湧いてくる。しかしそれを表情に出しては、祥真を怖がらせてしまうだろう。イサムは務めて笑みを保って、祥真の両肩に手を置いた。そして力強く、しかし痛みを感じさせない程度にその肩を掴んだ。
「僕も、ここへ誘拐されてきたんだ。怖いだろうが、僕と力を合わせてここから脱出しよう」
 真剣な目で祥真を見つめる。
 翔真は、はじめこそ頼りなげに視線を泳がせていたが、イサムが軽く肩を揺すると、それに励まされたのか、眉間に力をこめて、うん、とひとつ頷いた。
「よく言った」
 イサムは祥真の黒髪をなでる。
「それじゃあ、さっそくここを出よう」
 イサムは祥真の手を引っ張って部屋を出た。

 ※

 ――管制室かな。
 イサムと祥真は、新たに別の部屋をみつけていた。
 イサムが閉じ込められていた部屋も祥真が閉じ込められていた部屋も、身体を拘束するためのもの以外は何も無い部屋だった。
 ところが、この部屋はずいぶんと様子が違った。
 部屋の壁という壁に、画面が取り付けられている。見れば、そこに映っているのは堅牢そうな石造りの建物の内部だった。
 考えるまでもない。それはこの建物の内部の様子だった。おそらく建物の内部すべての様子が、ここにいれば見物できるのだろう。だから、管制室ではないかと思ったのだ。ただ、そうすると似つかわしくないものがある。
 それはソファだ。それも真紅色の、いかにも金持ち然としたソファだ。無機質な管制室の中に、それは異質で浮いているように見える。
 ――もしかして。
 そのソファから、イサムはまたもあの黒いドレスの女を思い浮かべた。あの女が好みそうなソファだ。もしからしたら、この部屋はあの女の私室ではないかという気もする。このソファの上に座って、こうして館じゅうの様子を眺めるのは、悪趣味には思えるが、いかにもあの女のやりそうなことだ。きっと、イサムが廊下で迷っている様子も、ここで見物していたに違いない。
 それにしても不思議なのは、イサムたちがこの部屋へ入るのに苦労をしなかったということだ。
 部屋の前を通った時に、すでに扉が半開きになっていたのだ。
 これほど大切な部屋を空けているというのはどういうことだろう、という疑問が浮かぶ。しかし、それにも、確証はないが答えのようなものが出るには出た。
 イサムが部屋から脱出する時に、あの女は黒服の男にワインを持ってくるように命令していた。しかしその黒服は、イサムの鉄拳によって失神している。
 もしかしたら、業を煮やして自分でワインを取りに行ったのかもしれない。別の部下へ命令すればいいような気もするが、そのへんの詳しい事情まではさすがにわからない。
 いずれにしても、この部屋には長くはいられないだろう。そして同時に、この部屋の中に脱出するための手がかりがあるのも間違いないだろうということが予想できる。それを素早く見つけ出さなくてはいけない。この瞬間は、まさに千載一遇といえる好機なのだと思う。

 といって、何から手をつけていいのかわからない。頭を人差し指で掻いていると、
「なんとかなるかもしれないです」
 自信満々といった様子で、祥真が言った。
 どうするんだいと訊く間もなく、祥真は部屋の中へ踏み込んでいく。見ていると、祥真は部屋の片隅にあるコンピュータへ駆け寄り、すごい勢いでキーボードを叩き始めた。
「おお」
 その手並みにイサムは思わず声をあげる。祥真が真剣だろうことは、後ろ姿からも伝わってきた。イサムはその集中を邪魔しないように、そっと祥真の背後に近寄り、コンピュータの画面を見つめた。
 画面には、次から次へと、理解できない英語が表示され続けていた。それは祥真が叩き込んでいる文字だ。人間の力で入力しているとは思えないほどの早さで、文字は打ち込まれていく。
「祥真くん、きみ、すごいね」
 すると祥真はちょっと手を止めて、背後のイサムを振り返るとへへへと笑った。その笑みの屈託のない様子は、やはり小学生くらいの幼さを感じる。
「僕の父はIT企業の社長なんです。だから、コンピュータの扱いにはちょっと慣れているんです」
 そしてふたたび正面を向いて、キーボードを叩き始めた。
「まるで詩織ちゃんみたいだな」
 何とはなしに、イサムはそう呟いた。武智探偵事務所の誇る科学者、不破詩織。幼い見た目に反して、機械に関するその知識と技術はもはや世界でも通用するほどまでに至っている。祥真がキーボードを叩いている様子から、詩織の様子を思い出したのだ。
「詩織――さん」
 祥真の手が、ふたたび止まった。
「どうした」
「今、詩織さんって」
「ああ、ごめん。邪魔をしてしまったね」
「いえ、いいんです。ただ、僕はその詩織さんという名前の科学者と親しいものですから」
「詩織ちゃんとかい」
 イサムは思わず問いかけていた。今は脱出を最優先に考えなくてはいけないというのに、なぜだか気になった。
 そうです――と祥真は頷く。
「僕は名前しか知らないですが、詩織さんっていう名前の人とハッキングの技術を競っているんです」
「そうなのかい」
 確かに、詩織がそういった技術について競っているという話を聞いたことがある。だが、詩織の相手は確か松尾くんとかいう名前だったはずだ。
 イサムがそれを言うと、ああやっぱり詩織さんだと祥真は幾分声を高くした。
「その松尾くんって言うのは、僕です」
「なんだって」
 こんな出逢い方があろうかと思う。イサムは驚きを隠せなかった。
「いや、でも待てよ。きみの名前は御子柴祥真くんだろ。松尾くんって名前とは全然違うじゃあないか」
「いえいえ」
 祥真は首を横に振る。
「松尾というのが、僕のハンドルネームなんです」
「ハンドルネームか」
 まあ、ネットで実名は使わないだろうなとは思いつつも、祥真が詩織の名前を知っているということは、詩織はネットでも実名を使っていたということで、つまり、なんというか、詩織は無防備だなという気がする。頭が良いのだか悪いのだか分らないというのが詩織の特徴のひとつだ。とはいえ、イサム自身も、何人もの友人知人から同じことを言われているのだが。
「でも、なんで松尾くんなんだい。ひと文字も合ってないじゃないか」
「それは、僕の苗字と名前の両方から取ったからです」
 意味がわからなかった。イサムがさらに問う前に、祥真は近くにあった紙とペンを取り、自分の名前をひらがなでさらさらと書いた。

 みこしばしょうま。

 拙い字が紙の上に綴られた。祥真はさらに、その名前の一部を括弧で括った。

 みこし「ばしょう」ま。

 ――ああ。
 それでようやくイサムにも理解できた。
「松尾芭蕉か」
「そうです」
 祥真は目を細めて悪戯っぽく笑う。
「松尾芭蕉。だから松尾なんです」
「捻ってるねえ」
 緊急時だというのに、思わず感心してしまう。
「それよりイサムさん」
 祥真はキーボードのエンターキーを勢いよく叩いた。
「このコンピュータはやっぱり建物全体を管理していたみたいです。建物の構造が、これで見られます」
 言いながら、祥真は今度はマウスを操作した。直後――。
 コンピュータの画面に迷路が表示された。
「うわ」
 思わず息を飲んでしまうくらい、それは複雑な迷路だった。解くのにどれほどの時間がかかるか知れたものではない。
「これ、脱出できるのか」
「任せてください」
 祥真は、ふたたびキーボードを叩きはじめた。
「迷路というのは、右手法を使えば必ず脱出できるんです。今、そのプログラムを即興で組んで、この迷路の脱出経路を探ってみます」
 イサムは祥真を助けるつもりでいたが、それは全く見当ちがいだったことをここに来て思い知った。
 もしイサムひとりだったら、この複雑な構造の建物から脱出することなど、到底無理だっただろう。この部屋に到達することができたとしても、プログラミングの技術を持たないイサムだけではやはりどうしようもなかったに違いない。子供ながらにすごい味方をつけたものだとイサムは思う。
 それにしても、即興でプログラムを構築するというのは並大抵のことではないはずだ。さすがにハッキングの技術で詩織と張り合うだけのことはある。
 イサムが感心していると、
「できました!」
 祥真が嬉しそうな声をあげた。同時にエンターキーを勢いよく叩く。
 イサムは画面を見た。すると――。
 画面いっぱいに映っている迷路の中を、一本の赤い筋が走りはじめた。
 赤い筋は右に折れ左に曲がり、時には行き止まりにぶつかりつつも、あっという間に出口に到達した。
「これが出口までの道のりです!」
 同時に、コンピュータの横にあった印刷機が起動して、一枚の紙を吐き出す。
 その紙には、今画面に表示されている通路とその出口までの道のりが、そのまんま印刷されていた。
「すごいじゃないかッ」
 イサムは祥真の両腕の下に手を入れると、そのまんま祥真の体を持ち上げてぐるぐるとまわった。
「は、早く、早く、ここから出ないと」
 引きつった笑みを浮かべつつ、祥真が言う。
「そうだね。じゃあ、すぐに出口へ行こう」
 イサムは、祥真を連れてふたたび廊下へ駆け出した。

 ※

 ――これまでか。
 祥真の弾き出した経路に従って廊下を走り、ようやく出口付近まで来たのだが、そこに最大の難関が立ち塞がっていた。
 出口の両脇と外に、例の黒服の男たちが大勢控えていたのだ。
 見えるだけでもその数は二十人はいる。
 いくらイサムが高い戦闘力を持っていたとしても、この人数を相手にまわしては、さすがにやり合えない。ここで無理をして出ていっては、下手をしたら命にも関わるだろう。
 と言って、このまま引き返しても仕方がない。

 通路の曲がり角へ身を隠して、イサムは考えた。
 戦って勝てないなら――。
 ――逃げるか。
 それしかないが、どこに逃げ場所があるだろう。
「ひ」
 いきなり、祥真が声をあげた。小さめの声だったから幸い誰にも気づかれなかったものの、イサムは一瞬肝が冷えた。
「どうした」
 訊くと、祥真は捕えられていた時のような不安げな顔をして、通路の向かい側を震える人さし指で示していた。
「か、竈馬が」
「え」
 竈馬――。
 事務所では、晴彦や詩織や里奈にさんざん冷やかされて意地を張っていたが、イサムは、やはり竈馬が大嫌いだった。異形ともいえる気味の悪い体つきをしていながら、目がつぶらなのだ。その不釣り合いな見た目が厭だ。しかも異常な身体能力でぴょんぴょんと跳ねるものだから余計と始末に悪い。
 イサムは背中にぞくぞくとするものを感じながら、祥真の指さした方を見つめた。果たしてそこには、本当に竈馬がいた。
「う」
 思わず声が漏れそうになるのを、手で口を塞いでこらえる。
 見ているうちに、竈馬は異常な跳躍力でもって跳ねながら出口の方へ行ってしまった。
 気持ちの悪い虫がいなくなって安心すると同時に、イサムは閃いた。
 当たり前だが、出口を警備している男たちは竈馬などには反応しない。それは竈馬などどうでもいい存在だからだ。もしイサムが堂々と出ていったらまともに追ってくるに違いない。イサムは奴らにとっては重要な存在らしいからだ。ならば――。
 その重要な存在が二人以上、同時に異なる行動を取ったらどうなるだろう。
 イサムは意を決した。
「祥真くん」
 小声で、しかし力のこもった声で、イサムは祥真に語りかけた。これまでとは違うイサムの様子を、祥真も感じ取ったらしい。
「はい」
 祥真もまた、固く緊張した声を出した。
 しかし緊張は失敗の元だ。イサムは祥真の緊張を和らげるために、あえてにっこりを笑って見せた。
「そう緊張しなくっても大丈夫だ。僕らはここから出ることができるかもしれない」
「え、でも」
 祥真は出口の方へ視線をやる。あの警備をどうやって突破するのか、という疑問を抱いているだろうことが伝わってくる。
 その疑問に答えるように、イサムは言った。
「大丈夫だよ。あれをみんな相手にして戦おうっていうわけじゃない」
「じゃあ、どうやって」
「なに、簡単なことさ」
 囮を使うんだよ――とイサムは言った。
「囮」
「そう。いいかい。僕がわざと見つかるように奴らの前を駆け抜ける。それで奴らの注意を引きつけるから、祥真くんはその間に逃げるんだ」
「イサムさんが囮になるんですか」
「そうだよ」
「でも、それじゃあイサムさんが」
「そうだね。きっと僕は助からないだろう。そこで祥真くんには頑張ってもらいたい」
「どういうことですか」
「ここを抜け出したら、すぐに武智探偵事務所へ連絡してほしい」
「武智探偵事務所、ですか」
「そう、言っただろ、僕は探偵なんだ。その武智探偵事務所には、僕の仲間たちがいつも暇そうにしているんだ。だからその仲間に連絡をして、僕の居場所を知らせてほしい」
 できるよね――とイサムは敢えて決め込んでかかった。
「でも」
 祥真はすぐには頷かなかった。イサムから視線を外して、眉を八の字にしている。そうしてしばらく黙っていたが、やがてひと言、
「怖い」
 と言った。
「怖いよ」
「怖い?-」
 うん、と祥真は頷く。そして、それに――とさらに言葉を続けた。
「イサムさんを犠牲になんてできないです」
「犠牲だって」
 あっはっはとイサムは笑った。
「なんだって僕が犠牲になるのさ。僕は犠牲になるつもりなんてちょっとも持っていないよ」
「でもあの人数に追いかけられたら」
「捕まるだろうね。でもコレクションにするとかなんとか言っていたから、きっといきなり殺されることはないよ。だから祥真くんが逃げたら武智探偵事務所へ連絡して僕の救出を依頼してほしいんだ」
「でも」
 でも、でもと祥真はうわ言のように繰り返す。頭はいいようだが、ちょっと度胸は足りないらしい。
「勇気を出せよ」
 そう言ってみたが、祥真はまだ意を決しかねているらしい。どうしたらこの臆病な少年を勇気づけることができるだろうかと、最後の最後で、またイサムは悩んだ。
 どうしようか思いあぐねていると、さっきいなくなったはずの竈馬が、また 戻ってきた。
 ――う。
 声が漏れそうになるのを、またもやイサムはこらえることになった。忌々しい虫だと思う。これを平気と思う人間がいるだろうかと思うくらいだが、考えてみれば詩織も梨奈も笑っていたから平気なのかもしれない。晴彦に至ってはイサムを見下すよな態度さえ取っていた。
 ――そうだ。
 そうか、そうだったのか――とイサムは妙に胸に落ちるものを感じた。こんな場合だというのに、事務所で晴彦に馬鹿にされた時のことが、イサムの脳裏に強烈に蘇ってきたのだった。
 梨奈も詩織も、イサムを心配してしきりにトイレに行くことを進めてきたのだが、それでもイサムはトイレには行かなかった。竈馬が怖かったからだ。でも――。
 イサムは臆病だからなあ――。
 まるで見下すかのようにそういった晴彦の言葉を、イサムは思い出す。
 臆病だから竈馬が怖くってもしょうがないよなあ――。
 晴彦はそうも言っていた。梨奈や詩織が心配しているのに対して、晴彦の言葉にはイサムを心配しているような印象は少しもなかった。でも、イサムがトイレへ行ったのは、そんな晴彦の言葉と態度のおかげだった。結果的にトイレに行ってイサムは腹痛から開放されたわけだが、もしトイレに行かなかったら――。そして、もし晴彦がイサムを馬鹿にしていなかったら――。
 つまりは、そういうことだ。有り体にいえば、イサムは挑発されたわけだ。今さらながら、イサムはそう気づいた。ありがたい反面、やや悔しい。それでも、その体験が今は役に立つかもしれない。
「ふん」
 イサムは鼻を鳴らして、目の前の臆病な少年へ視線を送った。なるべく侮蔑の表情を浮かべながら。
「きみは本当に駄目な奴だね」
「え」
 祥真の表情が、少し変わった。八の字に歪んだ眉の間に、皺が寄る。その表情を見て、イサムはさらに煽った。
「頭はいいようだが、まるで度胸がない。聞けばIT企業の御曹司だというじゃあないないか。どれだけ立派かと思えばとんだ腰抜けだ。僕が囮をやるというのに逃げる度胸さえないんだからね」
 そうしてまた、ふんと鼻を鳴らした。わざと口角を上げて笑ってみせる。

 腰抜け、臆病者とイサムは最後に挑発を仕上げた。
 その時、祥真の表情は明らかに変わっていた。肌理の細かい白い頬は紅潮し、釣り上がった目尻はさらに釣り上がっている。眉間に刻まれた皺もいっそう深くなっていた。しかもいくらか震えてもいるようだ。
「この親の七光りめ。一生そうやって怯えながら、お父さんの陰に隠れて生きているがいいさ」
 イサムはとどめをさした。
「できるよ!」
 これまでにはないくらいに大きな声で、祥真は叫んだ。さすがに放ってはおけないくらいに大きな声だったので、イサムは口の前に人差し指を立てて黙るように注意したが、祥真は収まらなかった。
「逃げ出して助けを呼べばいいんでしょ! そのくらいできるよ!」
 やってみせるよ! ――と祥真は最後に断言した。
 計算通りだ。怒りという感情は、人間に活力を与えるらしい。
「ほおん」
 とイサムは鼻から息を抜いて、まだ馬鹿にしているふうに装った。
「じゃあ、やってもらおうか」
「いいよ」
「僕がこれから駆け出すから、あの連中の隙をついて逃げるんだ」
「わかったよ」
「それじゃあ、いくぞ」
 イサムは通路から姿を現すと、黒服のたくさんいる中へ駆け出した。
 隠れながら見ていた時は三十人くらいし確認できなかったが、外へ出てみるとその倍はいた。その大勢の黒服がいっせいにイサムをめがけて駆け寄ってくる。
 このあたりの地理は少しも分からない。それだから、イサムは盲滅法に走り回った。ただし、建物からは離れるようように、かつ一方向へ向かって。
 直線的に、イサムは駆け抜ける。黒服のうちの何人かはイサムに追いつき、持っている武器でイサムに殴りかかってきたが、その何人かを、イサムは持ち前の戦闘力で叩きのめした。ここは戦うべき場面ではない。祥真が逃げる隙を見つけやすくするために、なるべく注意を引きながら、できるだけ逃げ続けるべき場面だ。
 だからイサムは、必要以上には戦わなかった。追いついてきたのを振り払う程度には抵抗するが、それ以外は建物から遠ざかることにだけ注意を傾けた。
 しかし、それにも限界があった。足には自信があったが、走っても走っても、まるで待ち伏せでもしていたかのように、逃げる先にすでに連中は控えていたのだ。思えば建物は相当な広さだったし、あの女は正体不明ながらもかなりの資産家なのだろう。とすれば、黒服たちは先回りをしているのではなくて、イサムのほうがまだ奴の私有地から抜け出していないのかもしれなかった。
 ――そろそろ祥真は逃げ出しただろうか。
 息切れをしながら、そんなことを考える。さらに突き進もうとしたが、脛も太腿も張っていて、もう力が入らなかった。気を張っていないと、そのまま地面に尻をついてしまいそうだ。自然、戦闘力もなくなる。そこへ黒服たちがいよいよ近づいてきてイサムを取り囲む。もう――逃げられなかった。
 イサムは逃げるのを諦めて、その場に膝をついた。湿った土が膝についてひやりとする。
 黒服たちが、無言のままイサムを円形に取り囲んでいる。数は知れないが、抗いようのない人数であることは確かだった。
 その円が、割れた。
 男たちのつくる円が左右に別れ、その分かれ目の間から――。
 あの黒いドレスの女が姿を現した。
「お疲れさま」
 と女は言って、ふふふと笑った。