魔宮夫人の恐怖! 3章 空白地帯

 とりあえず風呂へ入りたい気分だった。
 炎天下の中をそこらじゅうを駆けまわったおかげで、晴彦は全身が汗まみれになっていた。詩織から、根元が黒くなっていると指摘された赤い髪も、桃色のポロシャツの下も汗でぐっしょりと濡れている。
 思いつく場所はすべて当たってみたのだが、一向に手がかりは得られなかった。学校での友人や、近所の住人など、当たった人数は数しれない。それでも、手がかりはなかったのだ。
 他でもない。イサムが、いないのだ。
 バイトの時間ともなれば、いや、バイトの時間でなくても暇つぶしに事務所へ寄るようなイサムが、今日に限って姿を見せない。しかも今日は、バイトの予定が入っている日なのだ。
 遅刻しているのかもしれないと思って少し待ってみたがなかなか姿が見えない。それで携帯に連絡を取ってみたのだが繋がらない。おかしいと思って詩織や梨奈に連絡を取ってみたのだが、やはり知らないという。いよいよおかしいと思い、晴彦は詩織と梨奈にイサムの所在を探るように連絡をし、自分も街の中を駆け回ってみたのだが、やはり見つからなかったのだ。
 それで、とりあえず仲間と集まろうと思い、事務所へ戻ってきたのだが――。
 どうしようもないことに変わりはなかった。
 もはや茶話会の格好の会場となっている、事務所の応接室の隅では、扇風機が虚しく首を振っていた。
 晴彦は、腕で額を拭い、部屋の真ん中にある机に両手をついてうなだれた。
 ――どこへ行ったんだ。
 汗が顎を伝い、机の上にぽたぽたと落ちる。
 もう手がかりがない――と思っていると、晴彦に続いて詩織が入ってきた。
 詩織も晴彦と同じく、やはり汗にまみれていた。おさげにまとめた青髪はしなだれており、眼鏡をかけた丸みのある童顔も、紅潮していて玉のような汗が浮いている。晴彦と同じく、詩織も各方面を回ったのだろう。
「疲れたのです」
 力のない声で詩織はそう言うと、のったりとした足取りでソファへ歩み寄ってきて、その華奢な体をソファに沈めた。背中を背もたれに預けて天井を仰いでいる。
「どこにもいなかったのです。寮にも、いない様子だったのです」
 朦朧とした表情を浮かべながら、詩織は短い報告を終えた。
「お疲れさん」
 晴彦は仲間として、また事務所の所長代理として詩織を労った。あと期待を託せるのは、梨奈だけだ。
 何かいい情報を持ってきてくれと思いつつ、晴彦は机の上に落ち続ける自分の汗を見つめていた。やがて――。

「お待たせ!」

 明るい声とともに、梨奈がそのしなやかな姿を現した。
 出入口の扉をそっと閉めてから振り返った梨奈の顔には、笑みが浮かんでいた。
「何か情報があったのか」
 晴彦は腰を伸ばして梨奈に向き直って尋ねた。
「あったなんてもんじゃないよ」
 と梨奈は言った。
「でも――」
 梨奈を見る限り、汗をかいている様子は見られない。茶色の長髪はいつものように艶やかだし、緑色のTシャツも濡れている様子はない。張りのあるむき出しの太ももから足にかけても、日焼けしている様子は見られない。
「どこを探したのですか」
 ソファに沈んだまま力を失っていた詩織が、首だけ梨奈の方に向けてやはり力のない声で尋ねた。
「え、探してないよ」
 梨奈は、その釣り目がちな目を丸くしてきょとんとした表情をつくった。

「探してないってどういうことだ」
「探してないってどういうことなのですか」

 晴彦と詩織はほとんど同時に声をあげた。晴彦は目を見開き、詩織は背もたれから背中を起こす。
 晴彦たちの問いかけに、梨奈は平然とした様子で答えた。
「だって、探すのには限界があるでしょ」
 それはその通りだが、だからと言って探さなくてはなおさら手がかりは掴めない。
「じゃあ、どうやって情報を集めたのですか。私も晴彦くんも、そこらじゅうを探し回ったのですよ」
「そこらじゅうって」
「寮とか、学校の友達とか、近所の人とか」
「でも、それってイサムくんと距離的に近い人でしょ」
「そりゃ、そうだよ」
 距離的にでも近い人間に当たるしかない。少なくとも遠い人間に当たるよりは確実なはずだ。ところが――。
「それじゃあ、もったいないよ」
 と梨奈は言った。
「もったいない?-」
 晴彦は怪訝に思う。梨奈はそう、もったいないと繰り返した。
「もったいないってどういうことだよ」
「だって、イサムくんだよ」
 梨奈は悠長な足取りで晴彦の近くまで歩いてくると、ソファのひとつに腰を沈め、その長い足を組んだ。そして人差し指を立てて言う。
「イサムくんが王子なのは――まあ、口外できないけど――あの容姿だよ。あの性格だよ」
 容姿――。
 性格――。
 あらためて晴彦は、イサムを思い浮かべる。
「まさか」
 イサムは容姿端麗で明朗快活な好青年だ。王子であるということを差し引いても、その魅力は人よりも頭ひとつ分もふたつ分も抜き出ている。
「そう!」
 と梨奈は、立てた人差し指を晴彦に向けた。
「自分で探すのも大切だけど、イサムを知っている人に協力を仰ぐのも手だと思ったの。つまり――」
 学校に所属する〝女性の〟教師と生徒に、片っ端から声をかけたの――と梨奈は言った。
「そんな――」
 そんな方法があったのか、と晴彦は呆れ、また感心した。
「それで、どんな情報が得られたのですか」
 詩織が問いかけると、梨奈はちょっと待ってねと言って、尻のポケットからスマホを取り出し、画面を操作し始めた。
「ええと」
 梨奈は画面を指で擦る。
「まず、私たちと同じ一年の天帆さんっていう子の情報によると、昨日の夜に、イサムくんが誰かに声をかけているのを見たらしいよ。それから、システム学科の中村教授の話によると、イサムくんと似た青年の乗っている自動車を見た。それから――」
 それからも梨奈は、スマホの画面を見ながらイサムの行方に関する情報を続々と語り続けた。きっとメールかラインで情報を送ってもらっているのだろう。
 その溢れる情報を晴彦はいったん止めて、事務室へ行って地図を持ってくると、それを机の上に広げてあらためて情報を求めた。

 梨奈の言う情報を時系列に地図の上へ反映させていく。
 すると、地図の上に一本の筋ができあがった。
 筋は、ここ、武智探偵事務所のすぐ近く――つまり昨日イサムが帰ろうとしていた道だろう――から、南の方へ伸びていた。
 その筋の先には――。
「え」
 空白しかなかった。
「ここ、どこなの」
 詩織と梨奈は、前のめりになって地図に視線を落としている。
 筋の途切れているその場所は、確かに陸地ではあるようなのだが、道も建物も何も記されていなかったのだ。そこだけ空白なのである。
「こんな場所があったかな」
 地図で見る限り、この事務所からそう離れた場所ではない。なのに、晴彦は知らなかった。詩織も梨奈もその場所を知らないらしい。
「とにかく、イサムがこんな所へ、しかもバイトをそっちのけにして行くのは不自然だ」
 いくら親友とはいえ、晴彦ももちろんイサムのすべてを知っているというわけではない。だから本当になんの理由もないと言いきれるものではない。晴彦はそんな内容のことを自分でも考えながらに口にした。
「だから、警察に連絡しても対応してくれないかもしれない。そこで――」
「咲間警視なのですね!」
 晴彦の言葉の後半を、詩織が奪った。うん、と晴彦は頷く。
 咲間蒼生。
 警視庁公安部に所属する警視である。いつも青い背広で身を固めている青年だ。実際の年齢は知らないが、ひと目見た限りは二十代前半くらいに見える。警視という立場上、多くの情報に触れる機会のある咲間は、非公式にではあるが、情報を流してくれたり時には力を貸してくれることもある。武智探偵事務所にとってはありがたい存在だ。
「咲間さんに〝個人的に〟協力してもらおう」
 晴彦はポケットからスマホを出して、咲間の連絡先を表示した。