大咲山キャンプ場幽霊騒動 11章:追及

 ――しくじった。
 後悔の念しか感じなかった。
 幽霊騒動の犯人と思しき人物の足跡を追って、立入禁止の看板を越えてまで茂みに分け入り、その拠点らしきものを突き止めた。そこまでは良かった。が、そこで犯人に見つかってしまった。イサムは武術を心得ているから、ちょっとした暴漢くらいなら難なく撃退できる。実際に、武器を持った複数の屈強な男を相手にまわして互角にやりあったことだってある。だが、今回は訳が違った。
 イサムは腰を傷めていた上に、相手はスタンガンを持っていたのだ。隙をつくってしまった瞬間に電撃を浴びせられ、意識を失ってしまったのだ。そして目を覚ましてみたら――。
 このありさまだった。
 ――くそ。
 悪態をつきたくても、ろくに言葉も発せない。
 猿轡を噛まされているからだ。両手は後ろできつく縛られている。足も同様だ。足首を縄で縛られているから、動こうにも動けない。動いたとしても、芋虫が這うような惨めな全身運動が僅かにできる程度だ。
 どうしようもなかった。

 

挿絵提供は、夢鴉(むあ)様。


 閉じることのできない口から、イサムは大きく息を吐いた。
 ――諦めるしかないのか。
 落胆して視線を下に向けた。その時。
 イサムの胸に衝撃が走った。この状況を打破できるかもしれない――そう思わせるものが目に入ったからだ。
 視線を落とした先に――。
 包丁が転がっていたのだ。
 自分が床に転がされている状態で、かつ視線を落とさなければ、まず気づかなかっただろう。それは二段ベッドの下に、隠れていたからだ。
 イサムは全身を動かして、なんとか二段ベッドに背を向けた。そして背後に縛られた手を可能な限り動かして包丁を探り当てた。
 そして包丁を握り、手首を縛っている縄に刃を当て、少しずつではあるが、擦り始めた。見た目からしてだいぶ錆びていたから、切れ味は良くないかもしれない。それでも一応刃物ではある。地道に擦り続けていれば、縄を切ることができるだろう。
 猿轡を噛まされているせいで、息が苦しい。イサムは息を切らせながらも、一回一回、確実に、縄に当てた刃を往復させた。
 すでに窓の外には闇が降りている。夜が更けてどれくらいの時間が経ったのかわからない。それでも犯人と格闘したのが昼間だったを考えると、もう半日くらいは気を失っていたということになる。
 ――早く縄を切らないと。
 イサムは一心に包丁を動かした。
 十分ほど続けただろうか。ようやく縄が切れた。締め付けられていた手首から指先にかけて、血液が行き渡る感触が心地よかった。
 よし、これで脱出できる――そう思った時だった。
 ことり。
 音がした。外からだった。
 ――まずい。
 きっと犯人が戻ってきたのだろう。腰を傷めているし、今のままでは戦えない。下手に抵抗したらどうされるかわかったものではない。イサムはようやく切れた縄を両手で握り、咄嗟に縛られたままであるふりをした。
 その直後に、入口の扉が開いた。
 イサムの思った通り、現れたのは犯人だった。
 つるりとした頭。その頭部を囲むように頭の脇から長いものが伸びている。
 その姿が、夜の闇の中に、闇よりもまだ濃い陰として浮き上がって見える。
 イサムは気を失っているふりをして下を向き、それでも視線だけをあげて、犯人の姿を見ていた。視線をあげていても、目を開いていることが相手にばれることはないという自信がイサムにはあった。
 茶色に染めたマッシュヘアの前髪が、ちょうど瞼にかかる長さだったからだ。前髪に隠れて、イサムの目は相手には見えないだろう。それに加えて闇の中だからなおさらだ。
 陰は大股でイサムの近くまで歩み寄ってきた。これまで輪郭でしかなかったその陰に、目と鼻と口が見えた。来ている服の特徴も見えた。
 ――やっぱりこいつが犯人か。
 イサムは犯人を睨みあげながら、心の中で呟いた。犯人の正体は、思った通り――。
 岩田だった。
 気を失う直前にもちらりと見たから記憶にあったのだが、やはり見間違いではなかったらしい。犯人は間違いなく岩田だった。
 岩田は頭にヘルメットをかぶっている。ヘルメットの縁からは、顔を守るための布が見えている。だから陰としてしか見えなかった時は、そのヘルメットが、禿げた頭と、頭の縁から伸びる髪に見えて、てっきり了雲だと思っていた。だが、岩田だったのだ。
 岩田は、その特徴的なヘルメットを取ると床に投げ捨てた。ごとり、と重い音がコテージ内に響く。それでもイサムは動かなかった。気を失っているふりを、今は貫かなくてはならない。
「やっぱり殺しておくべきだったか」
 岩田は面倒くさそうに、そう呟いて大きく息を吐いた。ぞくりとしたが、イサムは動かない。その時――。

「それはどういう意味だ」

 突如、〝イサムの声〟が聞こえた。さすがに驚いた。イサムが自分で喋ったわけではない。突然のことにイサムは動揺したが、すぐに察した。
 ――晴彦だ。
 晴彦が得意の声帯模写を使って、イサムの声を出しているのだと覚った。つまり、このコテージの近くに、すでに晴彦は来ているのだろう。そして、何が目的があって声帯模写を使っているに違いない。
 

 晴彦が何を考えているのかは分からなかったが、とりあえずは晴彦に合わせてみようとイサムは思った。
 口元が見えては、イサムが喋っているのではないことがばれてしまうから、まず、顔をややうつむき加減で維持することを意識した。そして、喋っているのだから、もう意識を失っているふりをする必要はない。それを示すために、体勢を整えるかのように体を大きく動かした。足は自由が効かないが、手の自由はすでに確保されている。しかし、今は晴彦に合わせなくてはいけない。両手を背後に回したまま、縄を握って、まだ拘束が解かれていないふりを装った。
「なんだ、気がついていたのか」
 と岩田が言った。
「そのまんまの意味だよ。はじめは一人ずつ誘拐して、まとめて人身売買にでも出そうかとも思ったが、悔しいことにおまえたちはだいぶ優秀なようじゃないか。誘拐するのにもひと苦労だし、時間が経てば脱出する算段も整えられちまいそうだ。だから人身売買なんてやるよりも、単に邪魔者は邪魔者として片付けておけば良かったと、そう思ったんだよ」
 まあ、そういうわけだから――と言いながら、岩田はズボンのポケットからきらりと光るものを取り出した。鋭利に輝くそれは、あきらかに殺傷能力を持つ金属だった。
「ここで死んでもらう」
 岩田はそう言いつつ、その刃物を逆手に持って大上段に振り上げた。さすがにイサムも命の危機を感じて反撃に出ようと思ったが、絶妙な頃合で晴彦の声帯模写が割り込んだ。
「待て」
 もちろんイサムの声だ。
「もし殺すことを考えているんだったら、僕が手伝ってやってもいい」
 イサムの声を模写する晴彦の声は、そう言った。
 ――なんだって。
 何言ってんだよ――と言い返したくなるのを、イサムは寸前で飲み込む。
「殺しを手伝うって、どういう意味だ」
 岩田は、振り上げた手を下ろした。イサムも、晴彦が何を言い出すのかとはらはらしながら、会話のゆくえを聞いている。
 晴彦が言った。
「それもそのまんまの意味だよ。あんたが、俺たちを殺したいっていうなら、それを手伝ってやるって言ってるんだ」
「分からねえな。おまえは仲間も自分も殺されていいっていうのか」
「仲間?-」
 ふん、と鼻で笑う。
「あんな奴ら、仲間じゃない。あの赤髪の晴彦っていう奴は、所長代理って立場の上に胡座をかいて、僕はさんざん使いっ走りにされてきたんだ。それに、あの眼鏡をかけたちびっ子も、自分の能力を鼻にかけて、やっぱり僕を馬鹿にしてきた。それから茶髪ロングの梨奈って奴も、僕を女たらしだと言って、あからさまに馬鹿にしてきたんだ。僕は――」
 あいつらが憎いんだよ――と最後は絞り出すような声で言った。
 声だけなのに、なかなかの演技力だと思った。しかし半分くらい本音が混じっているのではないかという気がしてならない。これは後でじっくり追及させてもらうとしよう。今は演技に集中だ。
 イサムは、声に合わせて身を震わせた。悔しさを表現してみたのだが、伝わっただろうか。
 岩田はやや沈黙したが、やがてぽつりと言った。
「信じられないな」
 イサムは口に挟まれた布を強く噛んだ。騙しきれていない。岩田は、まだイサムを信じていないようだ。
「逃げ口上だろう」
 岩田はそう言った。
「ふふふ」
 と晴彦が、イサムの声で笑った。自嘲するかのような、投げやりな笑い方だった。
「やっぱり僕は、生きている価値がないのか。仲間に馬鹿にされ、せっかく復讐の機会が巡ってきたと思ったら、その相手にさえ信用されないなんて」
 そして――。
「だったらもう殺していいよ」
 と晴彦は言った。
 ――見殺しか!
 イサムは叫びたいのをこらえる。晴彦は仲間を見殺しにするような人間ではない。それはいちばんの友人であるイサムがもっとも分かっていたからだ。今の発言にも、なんらかの意図があるに違いない。それを信じて、イサムは台詞に合わせた。
 仰向けに倒れ込み、全身を弛緩させる。もうすべてどうでもいい、という人生を丸投げにした態度を現してみたのだ。晴彦を疑うわけではなかったが、これで岩田が襲ってきたら、両足で岩田を蹴り飛ばして反撃に出る算段をイサムは巡らせていた。
 しかし、その心配はなかった。岩田は襲ってくるどころか、いくらか同情気味な声でこう言ったのだ。
「おまえ、初対面の俺を信用してそんなこと言ってんのか」
「信用してるわけじゃないさ。ただ、あんたに晴彦たちを殺したい気持ちがあるなら、それに便乗しようと思っただけだよ」
「最後には、おまえも殺すことになるかもしれないんだぞ」
「それでもいいさ。どうせ、もう生きていたいなんてこれっぽっちも思ってないんだから」
 恐ろしく消極的な発言だ。思わず笑ってしまいそうになるのを、イサムはこらえる。
 それから岩田は、またしばらく黙った。そして――。
「わかった。じゃあ協力させてやろうか」
 と言った。どうやら、とりあえずは助かったらしい。
「ありがたい」
 と晴彦が言った。それに合わせて、イサムは起きあがる。
「ところで、僕だって馬鹿じゃない。あんたのやってきたことをここで暴いてやるよ」
 と晴彦が続けた。イサムは何のことか分からないながらも、その台詞に合った表情をしてみる。
 

「暴く?-」
 岩田は、立ったまま、その高い視点からイサムを見下ろした。
 晴彦がイサムの声で言う。

「幽霊を演じていたのは、岩田さん、あんただろ」

 ――断言しやがった。
 イサムはさすがに焦りを感じた。晴彦はこのまま、イサムの声で岩田を糾弾するつもりなのだ。これではまるで、アニメに登場する名探偵、眠りのナントカみたいな役割じゃないか。イサムはそう思う。いいところを持っていかれるのは癪だったが、それでも合わせないわけにはいかない。イサムは下を向いたまま、眠りのイサムに徹した。

 ※

「暴くとは面白いな。やってみろ、小僧が」
 岩田は、イサムを見下ろす視線に力を込めた。縛られて自由の効かない足は、しなやかでやや日に焼けている。昼間にスタンガンで気絶させた時の俊敏な動きを思い出してみると、この青年はかなり腕に自信があるに違いない。へたな格闘家よりもずっと強いだろう。いや、もしかしたら何らかの武術を極めている程度にまで達しているかもしれない。そんな感じを受ける。顔を見れば切れ長の目に薄い唇、面長のほっそりとした輪郭に、若干女性らしささえ感じるというのに、力は侮れたものではない。
「岩田さん、あんたが幽霊騒動の原因だってことは分かってるんだ。信用したわけではないけど、あんたに協力するためにもそんなことをした動機だけは聞かせてもらう」
「それより、ちょっといいか」
 岩田はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「おまえ、猿轡をされているのに、よくもそう流暢に喋れるものだな」
「こ、これは腹話術だ。腹話術が得意なんだよ僕は」
 一瞬動揺したように声が大きくなったが、まあそんなものかと岩田は思う。イサムは続けた。
「それより、なんで幽霊騒動を起こしたかっていうことを聞かせてもらう」
「待て、そもそも俺が幽霊騒動の原因だっていう根拠はあるのか」
「ある」
 即答された。岩田はつい、息を飲む。
「なんだ、言ってみろ」
「簡単なことさ。今朝、僕の仲間がコテージの前を探索していたんだ。そうしたら、茂みとコテージの間に、一往復分の足跡があった。靴底の溝の跡までくっきりとついた足跡がね」
「待て!」
 岩田は異議を唱えた。
「靴底の溝の形からは犯人を特定しようっていうのか。だとしたら無意味だぞ。了雲が俺の靴を履くことだってできるわけだからな」
 つい、了雲を呼び捨てにしてしまったことに、岩田は言ってから気づいた。
「いや、了雲さんではありえないんだよ」
「なぜそう言える」
「了雲さんだったら、足跡の他にも、なければならないものがあるからだ。しかし、それがなかった」
「なくてはならないもの?- なんだ、それは」
「杖の跡さ」
 とイサムは言った。
「杖だと」
「そう。了雲さんは高齢のせいか、杖がないと歩けないんだ。だから、了雲さんが歩いたのなら、杖の跡がなくてはいけない。なのに、足跡以外には、何も見つからなかった」
 ぎり、と岩田は奥歯を噛み締めた。
「だが待て、だからと言ってなぜ俺になる。同じ靴を履いた外部犯の可能性だってあるだろう」
「ない」
 イサムはまたしても、即答した。しかも岩田の示した可能性を否定した。
「そんなはずはない。だいたい俺の足跡は、あって当然のはずだ」
「なんだって」
 今まで余裕のある調子で話していたイサムの声が、いくらか乱れた。
「どうして」
 イサムが問いかけてくる。岩田はそれに、満を持して答えた。
「思い出してみろ。俺は昨日の晩、おまえたちのコテージへ行ったじゃないか。物置小屋の鍵を忘れたから。覚えていないか」
 く――とイサムが呻いた気がした。
 きのうの晩、雨が降り出してから、岩田は一度、コテージへ行っている。雨漏りを防ぐためにシートを取りに行きたいけれども、物置小屋の鍵を紛失してしまって、それが晴彦たちのいるコテージにあるかもしれないから探しに来た――そう言って。
「だから、俺の足跡があるのは当然なんだよ。外部犯が、俺の足跡を辿った可能性だってある」
 イサムはしばらく黙り込んでいたが、やがてぽつりと、
「いや、やはりそれはない」
 と言った。
 しぶとい餓鬼だ、と岩田は思う。だが、そんな主張などは簡単に切り崩せる。たったひとつ、質問さえすればいい。
「なぜ、ないと言えるんだ」
「まず、あんたがコテージへ鍵を取りに来たのは、嘘だった。本当は鍵なんて必要なかったんだ」
 一方的に決めつけられて、岩田は不快感を感じた。
「根拠のない憶測にすぎないな」
「根拠はあるさ」
 どこまで喰いさがってくる気だ。岩田は、頭の中に真っ赤な何かが充満するのを感じながらも、それが爆発するのをこらえる。
「根拠があるだと。言ってみろよ。鍵を取りに行ったのが嘘だっていう証拠を」
「いいだろう。教えてやるよ、その証拠を」
 岩田は唾を飲んで、イサムの返答を待つ。やがて、イサムは言った。
「そもそも、物置には鍵なんて掛かっていなかったからだよ」
「なんだと」
「僕は見た。このキャンプ場へ来て、いったん事務所へ行ってからコテージへ案内されて行く途中、物置小屋の鍵が半開きになっていたのを」
 中からは薪が覗いていたよ――とイサムは言った。
「さて岩田さん。なんで閉まってもいない扉を開けるのに、鍵が必要だったんだい」
 さすがにこれには答えられなかった。物置の扉が開いていたのは事実だったからだ。よく見てやがる、と岩田は心の中で呟く。岩田が答えに窮していると、イサムはさらに言葉を続けた。
 

「あんたが答えられないなら、僕が答えてやるよ。岩田さん、あんたは、本当は物置小屋に用事なんてなかったんだ。じゃあ、なんのためにコテージへ来たのか。答えはひとつだ」
 足跡をつけるためだよ――とイサムは言った。
「鍵を取りに来る、という口実で、あんたは茂みとコテージの間に、あらかじめ足跡をつけておいた。なんのためにそんなことをしたのか、それは簡単だ。夜中に幽霊に扮装してコテージへ来る時に、足跡を辿るためさ。もし鍵を取りに来なかったら、足跡がついたのは幽霊騒動が起きた時についたもの、と断定されて言い逃れができなくなる。しかし、鍵を取りに行ったという事実を作っておけば、足跡は幽霊騒動の時についたのではなく、鍵を取りに行った時についたものだと言い逃れができる。そして――」
 外部犯が足跡を辿った、という、まさしく幽霊のような可能性を生み出すことができる――とイサムは力強い口調で言った。
「憶測にすぎないな。確かに物置小屋は開いていた。それでも鍵を取りに行ったのは、小屋の扉が壊れていることを忘れていたからさ」
 無理のある言い逃れであることは重々承知していたが、そうとしか今は言えなかった。
「それに、もし本当に足跡をつけるために俺が鍵を取りに来たとしても、だ。それが即、幽霊を演じたのが俺だということにはならないだろう。本当に外部犯がいて、そいつが俺の足跡を辿ったという可能性を否定できるには至らないはずだ」
「だとすれば、ありえない証拠があるんだよ」
 イサムはきっぱりと言った。
「証拠だと」
 それにはさすがに、岩田も動揺を隠せなかった。
「どんな証拠があるっていうんだ」
 つい、きつい口調になってしまう。冷静でいなければ、論破されかねないというのに。
「トランプだよ」
 とイサムは言った。
「トランプ?-」
 すぐには反応できなかった。トランプがどうしたというのか。岩田が考えていると、イサムがさらに説明を加えた。
「茂みとコテージの間についた、一往復分の足跡。その足跡の上に、トランプがあったんだよ」
 岩田ははっとした。トランプに心当たりがあったからだ。鍵を取りにコテージへ行った時、晴彦たちはトランプで遊んでいた。だが――。
「それがどうしたっていうんだ」
 岩田にはまだ、なぜそのトランプが、岩田が幽霊の正体であることの証拠に繋がるのか理解できない。癪ではあったが、岩田は問いただした。
「どういうことだよ」
「実はゆうべ、僕たちはトランプで神経衰弱をやっていた。そうしたら、カードが一枚余ってしまった。余ったのは、クローバーのキングだ。そして足跡から見つかったのが――」
 ハートのキングだった、とイサムは言った。
「岩田さん、あんた覚えてるよな。コテージへ鍵を取りに来た時、くっつ君に足を取られて転んでいたのを」
「くっつ君?- なんだそれ」
「あ、ああ、すまん。くっつ君っていうのは、あのツインテールのちびっ子が開発した強力な接着剤のことでね、きのうの昼間にコテージの周りに撒いて、幽霊の正体をごきぶりみたいに捕獲しようと考えていたんだよ。あんたはそれを知らずにくっつ君を踏んづけてしまい、それで足が地面から離れなくなった」
「なんてもの作ってんだよ、お前たちは」
 しかも、くっつ君という名前はなんだ。命名の感性が酷いにもほどがある。
「とにかく、あんたは靴の底に強力な接着剤をくっつけたままコテージに上がり込んだことになる。そして、その時僕たちは、床にトランプを広げて神経衰弱をやっていた。もう分かるよな」
 つまり、岩田は接着剤のついた靴底で知らないうちにトランプを踏んでしまい、そのトランプが靴底に張り付いていたのを知らずに外へ出ていき、それが外で剥がれたから足跡の上にトランプが落ちていた、とイサムは言いたいのだろう。
「理屈は分かった。だがそれでも、俺が幽霊の正体だとということにはならないはずだぞ」
「なぜだ」
「問題は、トランプが〝いつ〟落ちたか、だ。俺が鍵を取りに来て、その帰りにトランプが落ちたのだとすれば、その後に外部犯が足跡を辿ったという可能性が残る」
「残念だが、そうはいかない」
「なんだと」
「もしあんたが、鍵を取りに来た〝帰り〟にトランプが落ちていたなら、往復分の内〝茂みに向かう〟方の足跡に落ちていなければならない。だが――」
 ――まさか。
 岩田はイサムの言おうとしていることを察した。
「トランプが落ちていたのは、〝コテージへ向かう〟方の足跡の上に落ちていたんだ」
「なんだとッ」
「つまり、こういうことだ。あんたは足跡をつけるために、鍵を取りに来る、という名目でコテージへ来た時、知らない間にトランプを靴の底につけたまま出ていってしまった。この時は、まだトランプが靴の底に張り付いていた。そして夜中、幽霊に扮したあんたは、昼間につけた足跡を辿ってコテージを訪れた。その途中でトランプが剥がれ落ちてしまった。〝コテージへ向かう〟ほうの足跡にトランプを落とすことができるのは、岩田さんしかいないということだ。つまり――」
 幽霊の正体はあんただ――とイサムは最後を強調するように語気を強めた。
「くう」
 唸り声をあげるのがやっとだった。岩田はとうとう反論の余地を失った。
「ちなみに、神経衰弱は二回やった。その一回目では、トランプが余ることはなかった。しかし二回目にやった時には、トランプが余った。岩田さんが鍵を取りに来たのは、ちょうど二回目の最中だったんだ。そこからしても、足跡の上にあったトランプが、僕らの使っていたトランプだということが推察できる」
 言葉が出ない。岩田は、片手に握ったままの刃物を、さらにきつく握りしめた。
 

「完璧なようだな。しかし、おまえのそもそもの疑問は、俺がなんで幽霊騒ぎを起こしたか、ということだったんじゃないのか」
「そうだ」
「それは説明できないだろう」
「いいや、できるさ」
 またもイサムは即答した。岩田の予想していない方の返答だ。
「だったら説明してみろ。当たっていたら、正直に教えてやろうじゃないか」
「わかった。正々堂々と論証してみよう」
 イサムはそう言って、一度言葉を切ってから、岩田が幽霊騒動を起こした理由――つまり動機――について語り始めた。
「正直なところ、確たる証拠があるわけではないから、推測にすぎない。それでも、大方は当たっているだろう」
 イサムはそう前置きをしてから本題に入った。
「あんたは了雲さんの使いとして雇われているようだが、それよりも深い因果が了雲さんとの間にはあるんだろう」
「深い因果?- ほのめかす言い方はやめてもらおうか。具体的にどんな因果があるっていうんだ」
「わかった。じゃあ言ってやろう」
 四億円事件だよ――とイサムは言った。
 その言葉が岩田の胸を弾丸のように貫いた。一瞬息が詰まる。
「はっきり言おうか。四億円事件の犯人は、岩田さん、あんたなんだろう」
 ――な。
「なんでそういうことになる」
 声を絞り出すのがやっとだ。
「俺は警察から容疑者の対象から外されたんだぞ」
「それは知っているさ。たしか、了雲さんの証言によってアリバイが確定したからだったな」
 さすがによく調べている。その通りだった。
 岩田が珍しく寝癖のつけていたので疲れているのかと思い、自室へ誘ってともに朝まで珈琲を飲んでいた――。
 了雲は、そう警察に証言したのだという。岩田はそう言った。
「それがおかしいんだよ」
 イサムは鋭く指摘してきた。
「何が、おかしいんだ」
「了雲さんがあんたを見ていたら、自室に誘って珈琲なんて飲むはずがないんだ」
「どういうことだ」
「もしその時、本当に了雲さんがあんたを見ていたら、真っ先に病院にでも連絡していただろうさ」
「病院だと」
 岩田には理解できない。どうして病院などに連絡を入れるというのか。
「分からないか」
 イサムは岩田の戸惑いを覚っているかのように、そう言った。そして、
「傷だよ」
 と言った。
「傷?-」
「そうさ。岩田さん、自分で言ってたじゃないか。その顔の傷のこと」
「う」
 岩田は思わず顔を手で覆った。
「その傷、執事をやっていた時に包丁を落とした拍子に付いたんだよな。それで、主人が不愉快だろうからって言って、その日のうちに辞めたんだろ。それも、主人の了雲さんに挨拶もせずに」
「な、何を――」
「もし挨拶をしたら――つまり顔を合わせていたら――了雲さんはのんびり珈琲なんか飲んでいられるはずがない。執事の顔に、そんなにも大きな傷がついているんだからな。つまり――」
 四億円事件当時のあんたのアリバイは成立してないんだよ――とイサムは言った。
「ぐう」
 こらえきれない何かが、声になって漏れた。
「だが、ちょっと待て」
 それでも岩田は、イサムの理論の隙をつく。
「そうすると了雲は嘘をついたことになるじゃないか」
「その通りだ。了雲さんは嘘をついたんだよ」
 嘘をつくわけがない、そういう前提で反論したつもりだったのだが、イサムはそれさえも肯定した。
「なぜだ。了雲は被害者だぞ。あんたのロジックを通すなら、俺が犯人なんだろう。なんで被害者である了雲が、犯人である俺のアリバイを、嘘をついてまで作ったんだ」
「庇ったんだよ」
 イサムは言った。
「庇った?-」
「そうさ。あんたは今、〝犯人である自分〟と〝被害者である了雲〟と分けたが、それは違う」
「違うだと。何が違うっていうんだ」
 底知れぬ何かを岩田は感じていた。イサムは何を言おうとしているのだろうか。岩田が言葉も出せないでいると、イサムはさらに続けた。
「了雲さん自身は、こう思っていたはずだ。すなわち〝被害者である岩田〟と〝加害者である自分〟」
「逆じゃないか!」
 いまだに何を言おうとしているのか、まるで掴めない。
「どういうことだ、それは」
「了雲さんに聞いたんだよ」
「聞いた?- 何を聞いたんだ」
「岩田さん、あんたも言ったことだが、霊媒師を呼んでここに霊がいるかどうかを見てもらったことがあるんだろう。そうしたら、了雲さんに怨みを抱いてる霊がいる、と言われたとか」
「それが、なんだ」
 聞けば聞くほど、話の方向が見えない。霧の中に迷い込まされてしまったような気分だ。正体がどこにあるのかわからないから、反撃しようにもできない。自然と岩田は、聞き役に回らざるを得なくなっていた。
 主導権を握ったイサムは、さらに続ける。
「怨みを抱かれていない人間なんていないんだよ。つまり――霊の実在はともかく――〝怨みを抱いている霊がいる〟という言葉は、誰にでも当てはまることになる。そしてそう言われると、言われた方は、自分が思いつく〝怨みを抱いている相手〟を自動的に思い浮かべることになる。了雲さんの場合は、それが――」
 岩田だったんだよ――とイサムは言った。
「俺――だと」
「違う。あんたのお父さんさ」
「親父?-」
 

「そう。了雲さんはたくさんの事業を起こしてきた人物だ。それだけに、怨みを抱かれることもあることを自覚していた。もちろん了雲さんは、悪どいことは何もやっていない。法律の範囲内で、大きな事業の前には、地元住民の意見もきちんと聴いた上で事業をやってきた。それでも、怨みを買うことは経営者として、大きな組織の頭に立つ人物として、免れないことだということは自覚していた。その中でも、とくに心当たりのある人物として、了雲さんはあんたのお父さんを挙げたんだ」
「俺の父は」
 そうだ。イサムはおそらく、もう分かっているのだろう。岩田の父のことを。
 岩田は、イサムに言われる前に自分から語った。
「俺の父は小さな町工場の社長をやっていた。ところが、門倉グループが俺の住んでいた地域に進出してきて、地域の町工場で請け負っていた仕事を根こそぎ持っていってしまった」
 それで経営は徐々に逼迫していき、ついには――。
「倒産した。それで俺の親父は、自殺したんだ」
 沈黙が余韻をもって室内に満ちる。やがてイサムが言った。
「了雲さんもそう言っていたよ。しかし門倉グループが進出したことで廃業を余儀なくされた人は、他にもたくさんいたんだ。それなのにどうして、岩田さんのお父さんだけが気になったのか、それが問題になってくる」
「何でだったんだ」
「それは岩田さん、あなたが了雲さんのもとで執事として仕えることになったからさ」
 またも意味がわからない。
「どうしてそれが、気にかけている理由になるんだ」
「正確に言うと、気にかけていたわけじゃない。あんたが了雲さんの前に現れた時に、了雲さんはあんたのお父さんのことを思い出したんだ」
「思い出した?-」
「そう。了雲さんはこう思ったんだよ。〝自分を殺しに来た〟――と」
「馬鹿な。そんなつもりは、俺には」
「なかっただろうな」
 イサムは岩田の言葉の続きを奪って言った。そして続ける。
「でも、了雲さん自身はそう思った」
「そこまで、どうして言えることができるんだ」
「簡単な話さ。了雲さんはその時にちょうど、ボディガードを雇っている」
「しかし、それはおかしいだろ。もしボディガードを雇うほど危機を感じていたのなら、そもそも俺を執事として雇わなければいいだけの話だ。なぜそうしなかった」
「それにも説明がつく」
 いったいどこまで、分かっているというのか。まったく淀まないイサムの言葉に、岩田は引き込まれる。
「了雲さんは、さっきも言ったが、すべての事業を法律の範囲内で、かつ事業を起こす周辺の住民とよく話し合った上で事業を興している。それでも競争ゆえに敗れていくものはどうしてもいる。そんな人たちに、了雲さんは少なからず同情を抱いていたそうだ。そんな了雲さんのもとに、競争で敗れていった人間の息子が、執事という仕事を求めてやって来た。了雲さんは断れなかっただろうさ」
「そ、想像にすぎない」
「証拠だってある」
「なに」
 イサムは、岩田の反論を悉く打ち返してくる。
「了雲さんは、僕らの事務所へ相談に来た時、こう言っていた」
 ごくりと、岩田は唾を飲んだ。
「学歴を基準に人材を選んでいた――と。しかし、このキャンプ場へ来て事務所で話した時、了雲さんは岩田さんのことをどう言っていたか」
「俺のことを?-」
「そう。了雲さんはこう言っていた」
 岩田は学歴こそ高校中退と大したことはないが、この気遣いの才は学歴を凌駕して余りあるというものじゃ――。
「学歴を基準に人材を選んでいる了雲さんが、岩田さんに関してだけは、学歴ではなく気遣いの出来を評価しているんだよ。つまり了雲さんは、同情から岩田さんを雇ったのさ」
「ということは、身の危険を感じつつも、同情から俺を雇っていたとでもいうのか」
「そう考える以外にない。来歴なんかは、いくら嘘をついても了雲さんほどの身分になれば暴くことは簡単だからな」
「しかし、それだって想像に過ぎないだろう。いくらでも考え方はあるはずだ」
「そう。しかし四億円事件には、ちょっと説明のつかない証拠品があるんだよ」
「説明のつかない?- なんだ」
「脅迫状さ」
「脅迫状?-」
「そう。これはネットにも詳しく載っているから誰でも見ることができる。それによれば、四億円事件が起きる前に、了雲さん宛てに脅迫状が届いているんだよ」
「俺は脅迫状なんて書いてないぞ」
 事実だった。脅迫状は書いていない。
「だろうな。あの脅迫状は不自然なんだ。内容がこんなものだった」
 イサムはそう言ってから、その内容とやらを暗唱し始めた。
「〝グループを潰せ。私のハッキング技術をもってすれば、銀行の残高を改竄して、預金を全額奪うこともできる〟」
「それの、何が不自然だというんだ」
「内容自体が矛盾しているのさ。銀行の残高を改竄できるほどのハッキング技術を持っているなら、それをもってグループを潰せばいい。なのにそれをせずに、わざわざ脅迫状を送りつけてグループを潰すことを要求している。これが矛盾さ」
 それは確かにイサムの言うとおりだった。だが――。
「それでも俺が書いたんじゃない。本当だ」
「それは分かってる。この脅迫状を書いたのは――」
 了雲さん自身さ――とイサムは言った。
「了雲自身が?-」
 そう、とイサムは言った。少し遅れて、イサムの首が上下する、頷いたのだろうか。
「何のために、そんな――」
 

「それに関しては証拠はないけれども、たぶん――」
 保身のためだろうな――とイサムは言った。
「保身?-」
「よく考えてみるといい。いくらボディガードが付いているとはいえ、四六時中自分の命を狙う――狙っていると思い込んでいる――相手が傍にいるわけだよ。これでは気が休まらない。かと言って自らの罪悪感があるから追い出すわけにもいかない。もちろん岩田さんが自ら辞める気配はない。それならどうするべきか」
 その方法はひとつだ、とイサムは低い声で言った。
「怨みの捌け口を作ること」
「怨みの――捌け口?-」
「そうだよ。その捌け口が――」
 四億円だったんだ――とイサムは間を置いてから言った。
「意味が――」
 分からなかった。
「分からないぞ」
 と岩田は言った。イサムは相変わらず冷静な声音でそれに答える。
「いいかい、岩田さん。普通、四億円を降ろすとなったら大事件だ。なんで下ろすのかと銀行員やら企業の役員やらから質問や反対が相次いでひと騒動だ。それでも、脅迫状が届いたからだといえばとりあえずは言い訳が立つ」
「そのための脅迫状だったっていうのか」
「おそらくはね。そういうことで四億円を自宅に置いた。わざと甘い管理のもとにね」
 ここまで聞いて、岩田にもようやくその向こうが見えてきたように思えた。
「つまり、こういうことか」
 岩田は慎重に、イサムの言わんとしていることを言葉にした。
「了雲は、怨みの捌け口として四億円を用意して、〝わざと〟俺に盗ませた――」
 イサムは俯いたまま、
「そうだよ」
 と答えた。
「いや待て――」
 そもそも、岩田とイサムは、岩田がなぜ幽霊騒動を起こしたのか、その動機について話していたはずだ。それをイサムが論証してみせるというから岩田は話を続けることにしたのだ。
「それが、どうして幽霊騒動に繋がるってんだ」
「やっと話がそこに戻ったな。そう、なんで幽霊騒動を起こす必要があったのか。それはまさしく、四億円事件に終止符を打つためだったんだ」
 きっと、イサムはもうすべて分かっているのだろう。岩田は黙ってイサムの話に耳を傾けた。
「四億円事件で消失した札束は、いまだに見つかっていない。ではどこに隠したか。もちろん、関係のありそうな家屋には警察が調べに入っている。それでも見つからなかった。かといって、どこかの銀行に振り込まれたとかいう記録もない。事件直後に、警察は検問を張って怪しい車両を見つけようとしたが、捕まらなかったんだ。とすれば、どこにあるのか。それはもう、可能性としては限られてくる――」
 地下だよ――とイサムは言った。
「検問を抜けることは不可能だ。家屋には警察の捜査が入る。とすれば、もう検問を張った場所を通らない範囲内にある空き地しかない。そして、当時このあたりで、見つからずに四億円を埋められる場所といえばひとつしかなかった」
「大咲山。ここだな」
 岩田は自ら言った。もう隠すのは無駄だと思ったのだ。
「よくそこまで推測したものだ。もう隠しきれないだろう。約束どおり、教えてやるよ」
 ふう、と岩田はひとつ息をつき、そして語り始めた。
「四億円を盗み出したのは俺だ。理由はお前の言った通り。父の会社を潰された腹いせさ。確かに殺意は、四億円を盗むことでいくらかは晴れた。そして、失踪した」
 警察にアリバイを訊かれた時は黙秘を貫いていたが、それも限界に近づいてきて白状しようとした時、いきなり釈放が言い渡されたのだ。「珈琲を飲んでいた」という了雲の証言によって。
「それで俺は、待ったんだ。四億円事件の時効が成立するのをな。その後で掘り返そうと思っていたら、だ」
 四億円を埋めたこの大咲山にキャンプ場が建設されていたのだ。
「これじゃあ、掘り返そうにも掘り返せねえ」
 込み上げてくるものをこらえて、岩田は冷静さを保ちつつ言った。
「時効までもう少しだっていうのに、キャンプ場が出来ちまった。しかもかなり人気のスポットになっちまっていてな。廃れる気配がひとつもねえと来た」
「それで幽霊騒動を起こしてこのキャンプ場を潰し、掘り返せるようにしようと企んだわけだ」
「その通りだ」
 それにしても、妙だなと岩田は思った。
 彼らの目的は、幽霊騒動の解決だったはずだ。それを突き止めるのに、どうして四億円事件まで遡って突き止める必要があったというのだろう。このコテージの中には、現に岩田の使った覆面という具体的な証拠がある。それを突きつければ、お前が幽霊だろうで済む話だ。それなのに、なぜくどくどと四億円事件まで遡る必要があるというのか。
 それともうひとつ、このイサムという青年は、先ほどからまるで顔をあげない。そればかりか、動作が声に少し遅れを取っている節がある。
 かたり、と音がした。
 外からだった。岩田は顔をあげた。
 イサムの後ろに窓ガラスがある。外は闇だ。そのガラス越しの闇の中に――。
 何かの影が一瞬だけよぎったのを岩田は確かに見た。