大咲山キャンプ場幽霊騒動 1章:依頼

 仙人みたいだな。
 依頼人の姿を見た第一印象がそれであった。応接室のソファに座って、晴彦は依頼人と向き合っている。間に机を挟んでいるが、それを越えて何かが押し寄せてくるような感覚を覚える。
 依頼人は、まず和装であった。菖蒲柄の着物を一枚、着流しているだけだ。頭は禿げあがっているものの、頭部の周囲には白髪が生えている。白髪は長く伸ばされており、後頭部でひとつにまとめられている。体格は痩せ型ではあるものの、背筋は伸びているので老いは感じない。染みの浮いた肌は乾いており、枯れている。皺もあるが、そこに長く生きてきたであろう深みが刻まれている。
 老いた依頼人は、ソファに座って股を大きく広げていて、その股の間に、樫の木でできた木目の目立つ曲がりくねった杖をつき、その杖の頭に両手を載せている。
 しかし老人は、その風貌こそ威圧感はあるものの、顔には人懐こい笑みを浮かべていた。いかにも好々爺といった風情の老人だ。
 その独特の風貌に、息を飲んでいるのは梨奈だった。梨奈は晴彦の隣に腰掛けていて、その少しだけ目尻のつり上がった目で老人の姿を見ている。
「凄いのが来たね」
 ぽつりと梨奈が言った。もちろん依頼人には聞こえないくらいの小さな声で、だ。
「凄いの、とか言うなよ。凄いけど」
 晴彦もまた、依頼人には聞こえないような小声で梨奈を注意した。自分でも凄いなどと言っているのだから梨奈のことは注意できない。
「お若い探偵さんじゃのう」
 と依頼人は言った。声も通っていて、威厳を感じるが、顔に浮いた笑みがそれを和らげている。
「俺たちは大学生で、探偵はアルバイトでやらせてもらっています」
 晴彦が答えると、依頼人はほう、と目を大きくした。
「アルバイトとな」
「ええ、でもだからと言って決して手抜きは致しません。どんなことでもご依頼ください」
「それは頼もしいのう。ふむ」
 老人は口をすぼめて、少し首をかしげた。
「依頼の内容はだいたいここの所長に電話で話しておいたが――ああ、なんといったかな、所長の名前は」
「武智です。武智恭介」
 答えたのは梨奈だった。少し声が上ずっているのは、まだこの依頼人の風貌に慣れていないからだろう。
 ああ、そうだそうだ、と老人は言って、両手で持っていた杖を一度持ち上げて、とんと音を鳴らして床におろした。
「そうだった。どうも歳をとると物忘れがひどくていかん」
 あっはっはと老人は磊落に笑い、禿頭を片手でぺたりと叩いた。
「その、武智先生か。彼は日本屈指の探偵だと聞いているが」
「おそれいります。海外からも依頼を戴いていて、今は日本にはおりません」
 晴彦は自分が先生と崇めている所長の武智を褒められて、つい頬が緩むのを感じていた。
 ふむ、と老人は頷く。
「それは良いんだが、そこまでの名探偵に事務所を任せられているからには、何かしらの特技があるんだろうね」
「特技ですか」
 咄嗟に訊かれて、晴彦はすぐには答えることができなかった。探偵としてのいろはは武智から教わっている。また晴彦自身も推理小説が好きだし、将来は推理小説作家になりたいと思ってもいるから、そういった文学作品からも学んだことも多い。しかし具体的にこれが特技ですと言えるものがあるかというと、すぐには思いつかなかった。
 ひと呼吸の間に頭を回転させて思いついたのは――。
「声帯模写」
 だった。
「ん?-」
「声帯模写です」
「声帯模写というと、古川緑波かね」
「ろっぱ?-」
 梨奈が晴彦の隣で首を傾げる。茶色の長い髪がさらりと揺れる。
「明治時代の芸人だよ」
 晴彦はそう答えた。
「ほう。若いのによく知っとるのう」
「ええ、まあ」
 晴彦は後頭部を掻いて愛想笑いをしてから、梨奈の方へ顔を向けた。
「古川緑波っていうのは明治から昭和にかけて活躍したコメディアンで、〝声帯模写〟っていう名前も緑波が付けたんだ。それまでは単に声真似とか声色とか言っていたらしい」
 へえ、と梨奈は口を半開きにして小さく頷いている。
「うん。そこまで知ってるなら大したもんだ。どれ、いっちょうどれほどの腕前なのか聞かせてはもらえんかね」
「今ですか」
 梨奈の方を向いていた晴彦は、依頼人からの突然の要請に思わず声をひっくり返した。
「駄目かね」
「いや、駄目ではないですけど」
 晴彦は人差し指で、自分の赤髪を掻く。
「では――」
 こほんと咳払いをし、喉の調子を整える。そして言った。

「うん。そこまで知ってるなら大したもんだ。どれ、いっちょうどれほどの腕前なのか聞かせてはもらえんかね」

 真似をしたのは依頼人の声だ。声帯模写には自信がある。実際に、武智の声を真似して電話に出て、気づかれなかったこともあるくらいだ。しかし――。
「あんまり似とらんなあ」
 と依頼人は眉間に皺を寄せた。あまり興に乗らなかったらしい。
「そうですか?- 私は似てると思いましたけど」
 と晴彦の隣で梨奈が言った。
「そうかね」
 と依頼人は唇を尖らせる。やはり納得がいかないようだ。
 

「それは、仕方がないんです」
 晴彦は、人差し指の付け根を顎にあてた。
「人は自分の声を聴くことができないんです」
「どういうことかね」
「自分の声は、ふたつに別れます。ひとつは空気を伝わって耳に届く気導音」
 晴彦は人差し指を立てた。
「もうひとつは、頭蓋骨を伝わって耳に届く骨導音」
 次に晴彦は中指を立てた。
「通常、自分の声は、このふたつの音を同時に聞くことになるんです。でも、今は俺が声真似をしましたから、〝骨導音〟は発生しませんでした。つまり、気導音しか聞いていないのです。それが、自分の声を客観的に聞いた時に起きる違和感なんです」
「ふうむ、なるほどのう」
 依頼人は下唇を突き出して、顎の皮をつまんだ。
「知識も技術も大したもんだ。疑っていたわけではないが、これならますます信用して依頼できそうだ」
 依頼人はひとりで何かに納得したらしく、ひとつ大きく頷いて、
「それじゃあ、本題に入って良いかの」
 と言った。
「もちろんです」
 晴彦は手を差し伸べて話を促す。
「実はな」
 老人は杖を両手で胸へ抱き寄せて、眉を寄せた。笑みが消え、苦しげな表情が顔に浮かぶ。
「儂は――ああ、まだ名乗っていなかったな」
 すまんすまんと言いながら、老人は顔の前で手刀を切った。
「儂は、門倉了雲という者じゃ」
「えッ」
 声をあげたのは、梨奈だった。
「どうした」
 晴彦は梨奈を見る。
 梨奈は片手で口を覆い、つり目がちの目をしきりに瞬かせている。
「門倉――さんって、もしかして」
「ははは、気づいたか。久しいな、梨奈ちゃん」
 老人は機嫌よく微笑んで、目尻に皺を寄せた。
「えッ」
 今度は晴彦が声をあげる番だった。
「知り合いなの?-」
「知り合いも何も」
 梨奈はそう言って初めて依頼人から晴彦に視線を移した。
「知らないの、晴彦」
「なにを」
「門倉さん――いえ、門倉グループといえば」
「門倉グループ?--」
 えッ――と晴彦はまた声をあげた。
「わかった?- 晴彦」
 晴彦は黙って頷いた。そして唾を飲んだ。
 門倉グループ。
 それは、目覚まし時計から宇宙ロケットの開発までを手がける大企業だ。そしてその総帥の名前は――。
 門倉了雲。
 知ってはいたが、まさかそんな大物が来るとは思わないから名前を聞いても一瞬誰なのか分からなかったのだ。
「いや、でも」
 それに続いて晴彦は思い出した。
「確か門倉グループの総帥は、今は――」
「ふむ、儂ではない」
 と了雲が言った。
 そう。一代で財をなした豪商、門倉了雲は、突如としてその大グループの長という立場から身を引いたのだ。若者に未来を託すという理由で・・・・・・。
 それ以来、了雲自身の姿はいっさい世間には晒されていない。奇代の大人物が世間から姿を消して、それがひょっこりと目の前に現れたのだ。驚かないはずがない。
 そしてさらに、実をいうと――。
 梨奈もまた、雨宮財閥という、これもまた日本屈指の財閥の令嬢だったりする。
 元・大グループの総帥と、財閥の令嬢。面識があっても不思議ではない。
「小さい時に、儂は梨奈ちゃんとは会っているが、忘れてしまったかな」
 好好爺の笑みを浮かべながら、了雲が問う。
「ええ、と」
 梨奈が答えに詰まっている。人差し指で鼻を擦りながら、小首をかしげる。つまり、覚えていないのだろう。覚えていないなどと、はっきりとは言いにくいだろう。
 そんな梨奈の様子を、了雲も察したようだ。
「覚えていなくても無理はないな。儂が梨奈ちゃんに会ったのは、まだこんなに小さい時だったからなあ」
 そう言いながら了雲は、床からそう高くない位置で手のひらを下にして水平にかざした。
「立派になって、今は探偵先生か」
 大したものじゃなあ、と、染みの浮いた顔を笑い皺でくしゃくしゃにしながら梨奈を見つめる。そして杖の頭に両手を載せて、いかにも感慨深いといった様子で顔を上下させている。
「き、恐縮です」
 梨奈は恥ずかしそうに下を向いて、背中を丸めた。本当に恐縮しているのだろう。
「ああ、すまん、すまん。話が逸れてしまったな。今回の依頼のことなんだが、その、きみらは武智先生からはどう聞いているかね」
「ええと、先生からは――」
 晴彦は視線を斜め上にあげた。そして、武智から聞いたことを要約してそれを口にした。
「たしか、キャンプ場が経営不振に陥っているとか・・・・・・」
「うん、その通りじゃ」
 真顔になった了雲からは威圧感を感じる。さすがに大グループの元総帥だ。威厳は少しも損なわれていない、といったところか。
「しかし困ったなあ」
 晴彦は腕組みをした。
「うちの事務所でお金に詳しいといえば、詩織くらいだけど――」
 それでも経理事務だけで経営までは出来ないだろうしなあ、と晴彦は唸った。
「そういえば晴彦、詩織とイサムくんはどうしたの-」
「ああ」
 松月庵へ行ってるよ、と晴彦は答えた。松月庵というのは、この近所にある和菓子屋だ。
「松月庵?-」
 梨奈はその端正に整った眉を訝しげに歪めた。そして、若干目を輝かせた。梨奈も、松月庵の干菓子を気に入っているらしいから無理もない。
「なんで松月庵にいるの」
「だってさ、喧嘩してただろ、あの二人」
 オバケは居るとか居ないとか言って――という部分を晴彦はあえて省いた。そんな子供みたいなことで喧嘩をしていたなどという話は、依頼人には聞かれたくなかったからだ。だから依頼人が来て、帰るまでの間は席を外してもらうことにしたのだ。

 

「ああ、そういえば」
 と梨奈は言い、やはり語尾を濁らせた。晴彦の気持ちを察したのだろう。
「今ごろ干菓子でも食べながら存分にやり合ってるんじゃないかな」
 ははは、と思わず乾いた笑いご漏れる。
「この事務所には、まだ仲間がいるのかね」
 和装の元大企業総帥はこくりと首を前へ突き出した。
「はい、今は席を外していますが」
「しかしな、きみは何か勘違いをしているようだが、儂は経営指南なんぞは望んでおらんのじゃぞ」
「えッ」
 晴彦と梨奈は同時に声をあげて、了雲の顔を見た。
 そりゃあ、そうに決まっとるじゃろう、と了雲は背中をソファに沈みこませてのけぞった。
「儂はもと経営者じゃぞ。経営に関しては玄人じゃ。指南をすることさえあれ、されることはまずないわい」
 もっともだ。しかもただの企業ではなく、世界を股にかける大企業の頭だった大人物だ。経営に関する知識は、ほぼ完璧と言って良いくらい持っていることだろう。だとすると――。
「では、依頼というのは」
 あらためて晴彦は尋ねる。
「それなんじゃがな――」
 了雲はソファの背もたれから上半身を起こし、背中を丸めて杖の頭を両手で包んだ。そして――。

「幽霊をなんとかしてほしいんじゃ」

 と言った。
 晴彦と梨奈は、一瞬固まった。声を出せないまま、ただ目を瞬かせる。そして、
「幽霊、ですか」
 と梨奈が訊いた。聞き間違いかもしれない。そう思ったのだろう。晴彦も一瞬そうではないかという気がした。しかし、
「そう、幽霊じゃ」
 と了雲は再度言い切った。
「それは、どういうことでしょうか」
 晴彦は、さらに深く追求する。しかし返ってきた答えに変わり映えはなかった。
「そのまんまじゃよ。儂はグループ総裁という立場にいたが、自ら引退した。若手を育てるためじゃ」
 そして了雲は、顎を撫でながら語り始めた。
 了雲が現役を引退したのは、決して不手際があったからでも、自らに限界を感じたからでもないのだという。
 生涯現役を貫こうと思えば貫けた、と了雲は語った。それは嘘ではないだろう。了雲はいまだ話し方は明瞭だし、体も頑丈そうに見える。そして人当たりもいい。組織の長としての素質は、むしろ年を重ねることでさらに磨きがかけられたのではないかと、経営に関してはまだひよっこである晴彦にもそう感じられる。
 では、なぜ了雲は身を引いたのかというと、それは若手の成長を促すためだったのだという。
「自分で言うのも僭越な話じゃがな、卓越した人間がいつまでも頭にいたのでは、下の者は儂に頼ろうとする。儂がいるうちはそれでも構わんが、儂だって不死身じゃない。そろそろいつ死んでもおかしくない年齢じゃ。急に儂がいなくなったら、残された者たちは困惑するじゃろう。そうなっては組織は立ち行かぬ。そうならぬためにも、儂は引退して後を若いのに任せ、どうしようもないという局面のみ出ていくことにしているのじゃ」
 なるほどと思った。さすがに大きな組織を抱えている人間は考え方も違う。自分だけではなく、自分についてくる多くの人たちの将来をも見据えて動かなければならないのだ。ちょうど、子どもを独り立ちさせようとする親のような感覚で、組織を見ているのだろう。
「それで現在はキャンプ場の管理人におさまっているんじゃよ」
 と、了雲は言葉を結んだ。
 了雲が管理人を務めているキャンプ場は門倉グループの支配下にあるもので、了雲は門倉グループの〝現在の〟総帥に雇われるという形で管理人を任されているのだという。
「もっとも、向こうは儂のところへ来るたびに、いまだにへこへこしておるがな」
 と言って了雲は苦笑した。了雲としては、すでに自分は引退した身であるし、現役の総帥にはもっと胸を張ってほしいのだろう。
 一方で、いくら引退したとはいえ、元総帥を相手に威張れないという現役の総帥の気持ちもわかる。
「ところで了雲さん」
「何かね」
「その、幽霊が出るという話ですが」
 少し言いにくかったが、それでも依頼を受けるからには実態を掴まないわけにはいかない。晴彦は印象を悪くするのを承知して、その上で思い切って訊いてみた。
「幽霊が出るというのは――」

 本当なんですか――。

 晴彦は歯を喰いしばって、怒声を浴びせられるのを覚悟した。しかし了雲は、怒りもせず、実にあっさりと、
「出る」
 とだけ答えた。え、と梨奈が声をあげる
「見たんですか」
 訊いたのは梨奈だった。了雲は孫を見るような目で梨奈の瓜実顔を見つめる。
「見た。記憶は曖昧じゃが、儂は見た」
「何かの見間違い――ということは」
 次に質問をしたのは晴彦だった。了雲は、梨奈から晴彦に視線を移す。
「そうじゃな。その可能性も否定はできん。じゃが、いつからか客足が遠のき始めて以来、妙に思って、儂の管理するキャンプ場の名前をインターネットで検索してみたんじゃよ。そうしたら、いつの間にか心霊スポットとして紹介されておったんじゃよ」
「それはそれは・・・・・・」
 災難なことだと晴彦は思った。設備が悪いだの料金が高いだの、そういう話しなら手の打ちようもあるというものだが、幽霊が原因では、さすがに元剛腕経営者といえど歯が立たないだろうう。
「つまり、今回のご依頼というのは、その幽霊を退治してほしい、ということですか」
 うむ、と了雲は頷いて顎を引いた。
「その通りじゃ。出来るかの」
 即答はできなかった。

 

「幽霊などというものの噂さえなくなれば、儂は自分の知識と技術で経営を立て直すことができる。しかし幽霊の噂があるうちは、儂もどうしようもない。どうか引き受けてくれんだろうか」
 了雲の眼差しが、情を帯びながら晴彦を見つめている。その視線を受け止めきれずに、晴彦は下を向いた。
 依頼人のためとなるならばなんとか引き受けてやりたいところだが、相手が幽霊とあっては、いくら優秀な探偵といえど手の出しようがない。
「残念ですが――」
 今回は――と言おうとした矢先だった。

「お引き受けするのです!」

 応接室の入口の方から、えらく快活な声が聞こえてきた。
 晴彦は顔をあげて、視線をそちらへ向けた。
 応接室の扉を開いて――。
 少女が立っていた。
「詩織」
 晴彦は、その少女の名を呼んだ。
 詩織はこつこつと足音を立てながら、晴彦たちの方へゆっくりと歩いてくる。白地に水色の縦縞模様が入ったテニススカートが揺れ、すらりと伸びる白くて細い足が、一定の間隔で床を踏む。
「晴彦くんは、そもそもなぜ迷っているのですか」
 澄ましたように目を細め、左手の人差し指を立てながら、詩織はそう訊いた。
「なんでって、だって――」
「幽霊なんか相手にできないだろう――そんなふうに思っていたからじゃないのですか」
 詩織は晴彦の返答を遮ってそう言った。そして晴彦のそばまで来ると歩みを止め、立てていた人差し指の先端を、ぴしりと晴彦に突きつけた。
 図星だった。喉が詰まる感覚を覚えて、一瞬息が止まる。
「図星のようなのです」
 詩織は人差し指で、今度は自分のかけている縁なしの大きな丸眼鏡を、くいと押しあげた。
  窓から差し込んでくる夏の日差しを、詩織の眼鏡が反射してきらりと光る。その一瞬だけ、眼鏡の奥の丸い瞳が見えなくなった。
「だとすれば晴彦くん、その考えはそもそも前提が間違っているのです」
「前提?-」
「そうなのです」
 詩織はつん、と顎をあげた。青いツインテールが揺れる。
「つまり――」
 幽霊の存在です――と詩織は言った。
「本当に幽霊がお客さんを脅しているなら、確かに引き受けても解決などしないのです。しかし、それは幽霊が出るという前提での話。お客さんが何かを幽霊と見間違えて怖がっていると考えれば、私たちは探偵なんですから、その謎を解明して幽霊などいないと断言することで、解決をすることができるのです。ですから今回の依頼は、むしろ探偵であるなら引き受けるべき、なのではないですか」
 さすが科学技術学部電子情報システム学科だ。はなっから幽霊の存在を否定してかかっている。いや、晴彦だって幽霊の存在を腹の底から信じているわけではない。むしろ、推理小説作家を目指すものとして、どちらかといえば否定的な立場にいる。
 それでも夜の墓地へ行ったら薄気味悪さを感じるし、神社へ行けば神聖な気分にもなる。心のどこかでは、そういうものの存在を否定しきれていない部分があるのだろう。
 しかし目の前にいる、ちょっと小柄な青髪の眼鏡っ子は、そんな生温い考えの持ち主ではないようだ。きっと詩織なら、平気で将門の首塚を踏みつけるくらいのことはやってのけるに違いない。
 その徹底ぶりには感心したものの、そんな詩織が、今は怖かった。幽霊の存在など科学の名の元に一刀両断してやる、とでも言いたげな熱意が、実際に熱を持って伝わってくる。
「そうだな」
 晴彦はふう、と息をついて、ソファから立ち上がった。そして詩織の正面に立つと、晴彦の目よりも若干低い位置にある科学少女の丸顔を見おろした。
「詩織」
 あどけないながらも、化学に対する真剣さを帯びたその丸顔には、凛々しさが宿っている。
「はい」
 と詩織は真剣な面持ちで答えた。それに対して、晴彦は言った。

「松月庵で餡蜜食べてきただろ」

「え」
 詩織は丸い瞳を瞬かせた。口を半開きにしている。
「ほっぺたに黒豆の皮が付いてる」
「えッ」
 はわわわ、と詩織は急に慌てだし、両手の手のひらで顔を擦りはじめた。
「せっかく恰好いいこと言ってたのに、それが気になって仕方がなかったんだよ」
 あはは、とつい笑ってしまう。
「わ、わわ、笑わないでほしいのです!」
 詩織は頬を擦りながら、上目遣いに晴彦を見あげた。眉は釣り上がっているものの、目と鼻の間が赤く染まっている。相当恥ずかしかったのだろう。肌が白いだけに、その赤みが目立つ。
「ほう」
 と感心したように声をあげたのは、了雲だった。喉仏の浮いた首を伸ばして、詩織の顔を見あげている。
「えらく気風のいいお嬢さんじゃな」
 と了雲は言った。はッと詩織は、体ごと了雲の方を向く。
「し、失礼いたしましたのです」
 言葉遣いがいくらかおかしい。しかし了雲はそれには触れなかった。
「なあに、構わん。女性が生き生きしとるのは良い職場の証拠じゃ」
 了雲の顔は皺で埋まった。笑みを浮かべているのだ。
「見たところ、君たちは優秀なように見える。思慮深いと思えば大胆だし、それでいて人当たりもいい。君たちはどこの学校の生徒さんかな」
「この事務所のアルバイトは、みんな青葉総合大学に通っています」
 そう答えたのは梨奈だった。
 

 ほう、名門じゃなあ、と了雲は言って、禿頭を大きく縦に振る。
「やはり人材は名門校から採るに限るか」
 了雲はそう言った。
「え」
 晴彦は思わず疑問符を声に出してしまった。それが了雲の耳に入ったのだろう。
「ああ、すまんすまん。今のは独り言じゃ。いや、経営者としての癖が今も抜けなくての、つい採用基準として人を見てしまうんじゃよ」
「ということは、私たちは合格なのですね!」
 詩織は胸の前で両手を握りしめている。目がきらきらしている。
「もちろんじゃ」
 と了雲は大きく頷く。
「学歴というのがな、最近はあまり拘られなくなっているようだが、儂はひとつの基準としておるよ。もちろん学歴に関係なく優秀な人材がいることは認めるが、優秀な者がいる可能性は、名門と言われる大学を出た者の中においては、ぐっと上がるんじゃよ。だから、現役時代は学歴を基準に人材を選んでおったもんじゃ」
 今はそんなことはないがな、と了雲は最後に付け足した。
「で――」
 了雲は晴彦の顔を見あげて、あらためて訊いた。
「依頼は、引き受けてくれるのかね」
 さっきまでは及び腰だった晴彦も、すでに決意はできていた。少し滑稽だったものの、詩織の後押しがあったからだ。

「お引き受けいたします」

 と晴彦は言った。
「よく引き受けてくれたものじゃ」
 ありがとう、ありがとう、と了雲は繰り返した。
「なにしろ幽霊だからな。警察に言ってはみたものの、まったく相手にしてもらえなんだから、ここが最後の砦だったのだ」
 引き受けてくれてありがとう――と了雲は最後に言い、ソファから腰をあげた。杖に体重をかけて、うんと力を込めてようやく立ちあがる。
「歳をとったもんじゃ。この杖がないと、立つこともままならんわい」
 かかか、と自嘲する。そして、了雲は杖をつきながら危ない足取りで事務所を去っていったのだった。
「ところで詩織」
 ずっとソファで大人しくしていた梨奈が、詩織に声をかけた。
「どうしたのですか、梨奈」
「イサムくんはどうしたの。一緒に松月庵にいたんじゃないの」
「ああ! そうだったのです!」
 詩織は目を丸く広げて口を手で覆った。
「どうしたんだ」
「実は――」
 なんでも、松月庵でふたりして餡蜜を食べながら幽霊の存在について議論を白熱させたあと、支払いをしようと思ったら所持金が足りなかったため、イサムを人質において詩織が財布を取りに来たらしい。
「ひどいな」
 頬の筋肉がひきつる。とんだセリヌンティウスだ。
「早く行かないと、イサムくんが待ちくたびれてしまうのです!」
 詩織はそう言い残すと、事務室へ駆け込んでいき、自分の荷物を持って、また駆け出して行ってしまった。
「イサムくん、災難ね」
 と梨奈が言った。つり目気味の目が、困りごとでもあるかのように憂いを帯びている。でも口許には笑みが讃えられていた。
 そして次の日――。